全く異なる言語

スーパーマーケットのカートを占有する人々がいた。こうしたカートは一体いつ、店内から持ち出され街へ出るのだろう?そこかしこで彼女はこうしたカートを目にした。押したり、引いたり、ねぐらにしたり、奪い合ったり、車輪を外したり、押し曲げたり、狂ったように転がしてみたり、つまらない生活用品を詰めこんでみたり、いうなれば、ありとあらゆるものを網羅した屑の総体とでも言うべきものがそこにあった。彼女は、ビニール袋の中で暮らす件の女性に持ちかけてみた。「ショッピングカートを一台掠めてきてあげるわ、それくらいなら私にもできると思うの」女は、袋のなかから彼女に向かって何事かわめいた。鳥の鳴き声みたいな声だった。喉を締められたアヒルのようなその声を、カレンは何とか聞き取ろうとした。そこでふと彼女は、ここにいるほとんど誰もが、今まで彼女が耳にしたこともないような話し方をすることに気づいた。これまで彼女がずっと慣れ親しんできた言語の聴き取り方は一つだったが、今やまた別の聴き方を身につける必要があった。それは文字に書き表すことのできぬ、内なる、全く異なる言語だった。それは、ショッピングカートとビニール袋のなかから漏れ聞こえる言葉の屑であり、そこには煤が染み着いていた。それゆえカレンは、女がハンカチを縛り付けたような喉から言葉をひとしきり絞り出すさまに、注意深く耳を傾けなくてはならなかった。それから彼女は、最初に立ち戻って、もう一度意味を組み立てようとした。「この街じゃ、車椅子のために優しくステップを降ろしてくれるバスがあるでしょ。そんならホームレスのためにも乗り場を設けてよ。こっちたちだってそんなバスがほしいものだわ」女はそう言っているように聞こえた。

「映画館に入れてもらえる自分用の盲導犬がほしいものだわ」女はそう言っているように聞こえた。

だが、全く別のことを言っているのかもしれなかった。

人々がいたるところに群れをなして集まる。泥塗りの家や、トタン屋根の掘っ建て小屋や、しどけなく広がったキャンプ小屋から出てきた人々は、埃っぽい広場に集結し、どこか中心へと連れだって行進していく。何かの名前を叫びつつ、道すがら仲間をどんどん増やしながら、ある者は駆け出し、ある者は血痕の付いたシャツに身を包んで、やがて広々とした空地へとたどり着く。互いの身体を押し付け合ってそこを埋め尽くし、白い空のもと、みなが口々に名前か何かを叫ぶ。おびただしい人の群れが唱和する。

「ふらふらにしてちょうだい」だったか、「ずたずたにしてちょうだい」と、女は言った。カレンがパイの皿に温かい食べ物を載せて持ってきてやると、女はそれを自分の袋へしまいこみ、またどこかへと姿を消した。

 

「どうして彼がひとりでいるってわかるわけ?

「もちろん一人にきまってるわ。どうやって生きていけばいいかってことを忘れるために、ひとりぼっちになりたがってるんだから。どうやって生きていけばいいかなんて、もううんざりなの、あの人は。そんなのもうそっくり返上したいと思ってるのよ。絶対、一人でいるにきまってるわ。私、あの人とは百年も旧知の間柄なんだから」

 

『マオⅡ』

接触

野外ステージで何かがうごめいていた。牛乳のカートンに印刷された行方不明の子供たちだった。それで彼女は、耳の不自由な子供のために掲げられた道路標識を思い出し、日曜日の田舎道ならではのシーンとした静寂さを心に思い描いた。それもまた、何だかベイルートみたいだった。彼女は公園で顔見知りに声をかけ、いかにして人生というものを、力漲るある人物の教えに従って一つに統合すべきかといて回った。地下鉄で彼女は、英語に表示がすぐ横に掲げられているにもかかわらず、スペイン語で非常時の心得を読んでみた。もし本当に非常時になったら、そのときはそのときで英語を読めばいいんだからと自分に言い聞かせ、さしあたりスペイン語を心のなかで呟くことにした。

地下鉄でも、街の雑踏でも、夜の公演の片隅でも、「接触」は危険を孕んでいた。「接触」は、言葉を交わすことでもなければ触れ合うことでもなく、見知らぬものの間に閃光のごとく伝わる雰囲気のようなものだった。彼女は、どうすれば自分の歩き方や座り方を変え、自分の視線を隠したり根絶やし同然にできるか会得しつつあった。彼女は自分の内奥に留まっていた。あくまでも自分自身の内側を歩き、視線が飛び交って瞬時にして認知されるような、誰のものでもない不確かな領域へ足を踏み入れようとはしなかった。こっちも人間なら、そっちも人間、よってこっちにはそっちを殺す権利があるというような領域に彼女は決して立ち入ろうとはしなかった。彼女の頭には、街を駆け抜ける人々の姿が思い浮かんだ。

カレンは、小型テレビを片手に、梯子を上ってブリタのベッドに上がるのが好きだった。ロフト全体の照明を落とし、テレビの光を反射して明るくなった天井の真下に座って、音声なしに画面に見入るのが好きだった。

 

私たちの仕事は再臨に備えることよ。

この世はすべて一つの家族になるわ。

私たちは、はるか彼方よりやって来るあの方の精神的な子供なんですもの。

私たちは、本当の父の絶対的な力によって護られているのよ。

私たちは全く子供同然なんだから。

完璧な存在に身を委ねりゃ、疑念なんかみんな消えちゃうわ。

 

『マオⅡ』

あらゆるところに彼女は存在していた

アパートに泊めてやって、猫の世話まで頼みながら、カレンの名字も知らないなんてと彼女は考えた。

彼女は、このところ自分の頭のなかに入ってきて知覚されるありとあらゆるものごとが、たちどころに文化のなかに入りこみ、絵画や写真や髪形やスローガンになるように思えてならなかった。自分だけの私的な思いのどうしても言葉にならない細部でさえ、絵葉書や広告板の中に見られるのだ。彼女は、自分がこれから撮影することになっている作家の名前が新聞や雑誌に載っているのを見た。まるで彼女が世界中に伝染性の光輝のごときものを撒き散らしているみたいに、無名の人々の名前が印刷され、名声を獲得していくのだった。東京で彼女は、美術雑誌に複製されたある絵画を見た。パネルにはめこまれた『摩天楼Ⅲ』というタイトルのカンバスには、彼女がちょうど自分のアパートの窓から眺める角度で、しかも自分と同じ疎ましい気分で世界貿易センターが描かれていた。まさしくそれは、彼女におなじみの高層ビルだった。窓もなく屹立し、視界に入る空間を埋め尽くす二本の黒いラテックスの石板がそこにあった。

電話でおしゃべりしている男が言った。「じゃあ明日、そちら時間で一時ということで」

何と興味深いことだろう。というのもブリタは、次の日の一時に、一度会ってくれとせがむある雑誌の編集者と会う約束をしていたからだ。ひょっとすると、何か写真のことを聞きつけたのかしらと勘ぐってみたくもなった。

あのフィルムの束を現像しなくてはならないのだろうかと、彼女は考えた。だがあの朝、撮影の最後の段階で垣間見たビルの顔の記憶が彼女を悩ませた。あの目には何とも言えぬ恐ろしい輝きがあった。彼女は、人が己自身のはるか昔の痛みにあれほど全身で没入していくのを見たことがなかった。絶え間なく内向を続け、最初の認識に立ちかえり、当惑に立ち戻っていく人生というものもあるのだと彼女は思った。だからこそ、あまたの物悲しさがあのドアをよぎるのだ。

乗務員が空になった彼女のカップを持っていった。

スコットとのことについては、やましい気がしてならなかった。あれは見当違いのセックスだったんじゃなかったかしらと彼女は思った。二人がいっしょに過ごした間じゅう、彼女は、ビルが薪を割るのを浴室から裸で見下ろしている女であり続けた。イメージというものが、肉体的存在である個我の間に割り込んでくるさまはいかにも奇妙だった。そう思うと彼女はスコットに対して申し訳ない気分になった。一度彼に電話をしてみようと、州北部の地図を片手に、記憶の糸を懸命に辿って道路表示板を思い起こし、ようやくいくつかの群の番号案内に電話をかけてみた。ところが、記載の有無に係わらず、スコット・マーティノという名前はどこにもなかった。それに、ビル・グレイはどんなレベルにおいても存在せず、カレンにいたっては名字すら定かではなかった。

スクリーンに映った顔は、彼女と同じビルに住んでいる俳優のものだった。その俳優は彼女に百五十ドルと三本のワインの借りがあった。彼女は、ジャズを頭のなかでガンガン響かせ、薄暗い光の中に浮かび上がる彼の顔を目の当たりにしてはじめて、あのときの借りをまだ返してもらっていないことに気づいた。

彼女は、かつて自分がソウルで撮影しようとした作家の一人が、転覆罪と放火罪と共産主義活動の咎で刑に処せられ、まだ刑期九年を残していることに思いを馳せた。あのときどうしても面会が許可されず、彼女は憤慨のあまり当局に悪態をついてしまった。みっともないこと限りなかったが、恥ずかし気もなく芸術家としての彼女がそうさせた。だが彼女にしてみれば、その作家の顔をちゃんとフィルムに収め、その似姿が独房から七千マイルも離れた暗室のルビー色の光のなかに浮かび上がるのを見たことの方が、よほど重要に思えたのだ。

彼女は、自分の家と作品とワインと猫を、得体の知れぬ娘に委ねていた。

同じ列の座席の一番端の子供が日除けを上げたとき、彼女は、目の前に広げていた雑誌をもう見たくないと思った。もしかしてそこに、自分の人生に出てくる何かを見てしまうかもしれないからだ。彼女は地上五マイルの空中で座席に固定され、封印されていたが、世界はあまりにも身近にあり、あらゆるところに彼女は存在していた。

 

『マオⅡ』

テロリスト

「彼らが自ら死と隣り合わせの生き方を選び、陰の世界に生きているあの生きざま。あなたが嫌うものの多くを彼らもまた嫌うあのさま。あの規律と狡猾さ。彼らの生きざまの首尾一貫性。彼らが扇動し、称賛を煽るあのさま。輪郭がぼやけて過剰になってしまった社会では、恐怖こそが意味のある唯一の行為なのです。あらゆるものが過剰なんです。ものであれ、メッセイジであれ、意味であれ、人生が一万回あったって使いきれないほどあるわけでしょう?無力・ヒステリー症とでもいうのですかね。歴史は可能なんでしょうか?真剣な人間なんか見当たりますか?われわれは誰を真剣に受け止めたらいいんです?死をものともしない信者ぐらいのものでしょう。信念のためには人を殺し、自らも死にゆく人間。そういう人間以外はみんな取りこまれてしまうんです。一ドル札を握らせて、テレビのコマーシャルに出演させればいいわけだから。超然としてるのはテロリストだけですよ。文化はテロリストをどんなふうに同化すればいいのか見当もつかないんです。彼らが何の罪もない人々を殺めると、どうしていいのかわからない。でもそれこそが、耳目を集める言語であり、西洋が理解できる唯一の言語にほかなりません。自分たちがどんなふうに見られているか、彼らが決めつけるさまをご覧なさい。無限に流通するおびただしいイメージの群れを彼らが支配するさまをご覧なさい。ロンドンで言った通り、ビル、小説家こそが、密やかな生活や名もなく無視されたすべての人々にくすぶる憤りを理解できるんです。あなたがたは、半ば人殺しみたいなものですよ。あなたがた小説家のほとんどはね。」

ジョージは、自分の考えに酔いしれ、幸せな気分に浸っていた。ビルが手を動かしたり首を横に振っても、彼は笑みを絶やさなかった。

「それは違う。テロリストが孤独な無法者だというのは全くの神話にすぎんよ。やつらは民衆を弾圧する政府に支援されてるんだ。やつらは、小規模ながらこのうえなく全体主義的な国家を形成していて、完全なる破壊と完全なる秩序という、例の現実ばなれしたものの見方をしてるんだ」

「恐怖ってものは、人知れず密室で一握りの人間たちによって始まる力なんです。彼らは規律を重んじるでしょうし、意志のあるところでは無慈悲でしょう。もちろんのことです。あなたは旗色を鮮明にしなくちゃいけません。日和見を決めこんじゃいけませんよ。虐げられし者や唾棄されし者のことをお考えなさい。こうした人々は秩序を希求するんじゃないでしょうかね。だとしたら、秩序は誰によって彼らに与えられるんです?毛主席のことを考えてもごらんなさい。秩序は永遠なる革命とともにもたらされるのです」

「五千万の紅衛兵のことを考えてもみろ」

「実際、彼らはまだ年端もいかぬ子供ですよ、ビル。すべて忠誠心の成せる業なんです。輝かしく、ときには愚かしく、またときには残虐な忠誠心の成せる業。どこでも少年は突撃用のライフル銃を振りかざしてポーズを取ります。若者というのは、申し分のない残忍さと生硬さを備えているものなんです。それに、ロンドンで言ったみたいに、惨たらしければ惨たらしいほど注目を集めるんです」

「だが、何かを守ることが困難になればなるほど、自分の地位に汲々とするようになる。これもまた別の類の生硬さってものだ」

二人は互いに向き合い、屈みこむようにして座ったまま、もう一杯飲んだ。バイクが騒々しい音を立てて外を通り過ぎていった。

「ジョージ、きみは毛沢東主義を標榜するちっぽけな組織を代弁してるってわけか?」

「まだ構想の域を出ませんが、シリア人やパレスチナ人やイスラエル人のいないレバノン、イラン人の義勇兵もいなければ、宗教戦争なんかもないレバノンを実現したいんです。それには、すべての苦々しい歴史を超越するモデルが必要なんです。並外れた指導力のある何かが、絶対的な存在となる人物が必要なんです。自分たちを作り直そうと悪戦苦闘している社会には、欠かせないわけですよ、ビル。絶対的政治と、絶対的権威と、絶対的存在ってものが」

「もしかりに僕が、有無を言わせぬ権威の必要性を認めるとしても、僕の作品がそれを許さないだろうな。僕自身の意識の経験からして、僕は、いかに独裁政治がうまくいかないものであるか、いかに絶対的な支配が精神をだめにしてしまうかわかっているつもりだ。それに、自分の描く登場人物を完全に支配しようとする僕の努力が、当人たちによっていかにして挫かれ、僕が内なる異議申し立てや論争をいかに必要としているか。この世界を手中に収めたと思った瞬間、いかにして自分が粉砕されてしまうかってこともわかっているつもりだ」

彼はマッチを取り出して、指で摘んだ。

「きみは、僕がどうして小説というものを信じているか知っているかい?小説ってものは民衆の叫びなんだ。誰にでも偉大な小説はかけるものだよ。一冊くらいはね。その辺にいる素人だってほとんど誰でも。僕はそう信じてるんだ、ジョージ。名もなく、汗水たらして働く者であれ、夢を育むことなんかにほとんど縁がない向こう見ずな無法者であれ、机に向かって自分の声を見つけ出し、運良く素材を掘り当てれば書けるわけさ。それにはどことなく天使が乗り移ったみたいなところがあって、才能がほとばしり、着想が湧き出すさまに、君は唖然とすることだろう。他人に真似できない自分だけのテーマ、紛うことのない自分だけの声。そういうところから生まれる曖昧さや、矛盾や、囁きや、暗示。そういったものを、君たちはことごとく破壊しようとしてるんだ」

ビルは思いもよらず自分が憤慨していることに気づいた。

「そして、小説家ってものは、才能がなくなると、民衆とともに死を迎えるものなんだ。もはや望みなき忌々しい駄文の山を衆目にすっかりさらけ出してな」

 

「あなたに申し上げるのもなんですが、言葉が尊ばれるにはいろんな尊ばれ方というものがあるんです。往々にしてすばらしい詩行は、それを取り巻く状況に無頓着なものです。貧しい人々だとか、若い人々だとか、人民には何でも書きこむことができるのです。毛はそう言って、自ら書きまくりました。それで彼自身が、大衆に書かれた中国の歴史となったわけです。その結果、彼の言葉は不滅のものとなり、人民すべてによって学習され、復唱され、暗唱されたのです」

「呪文さながらにね。人民は決まりきったお題目を唱えてるだけのことさ」

「毛が統治する中国では、人民は出かけるにも、いつもある冊子を手に携え、楽しみや娯楽なんか求めやしないんです。自分自身を全中国人民に縛り付けるわけだから。何の冊子ですって?毛語録ですよ。彼の語録を集めた小さな赤い冊子。人民がどこへ行くにも携行する忠誠心の証みたいなものです。彼らはそこに書いてある文句をそらんじて、それを振りかざし、いつもこれ見よがしに誇示するんです。愛し合うときだって手放しませんよ、絶対に」

「お粗末なセックスだな。機械的な、お決まりの、代り映えのしない」

「むろんそうかもしれません。でも、そんな陳腐な反応をなさるとは驚きですな。むろん機械的でしょう。われわれは逃走を遂行するための指針となる著述を記憶にとどめるんです。記憶にとどめることで風化するのを防ぎ、もとのかたちが保たれるわけです。子供が親が語ってくれた話を覚えこみます。子供は、同じ話を何度も何度も聞きたがるものなのです。そのとき、一言と言えども変えてはなりません。さもないと子供はひどく混乱しますから。これこそが、文化というものが生き残っていくために必要な、変わらざる物語というものです。中国においては、そうした物語は毛のものでした。革命の行方を定かなものとするために、人民はそれを覚えこみ暗唱したのです。そんなふうにして、もう自身の体験は外部からの力によって朽ち果てることなく、何億という人民の生きた記憶となったのです。毛を崇拝することは毛語録を崇拝することにほかなりません。それは統合を求める叫びであり、群衆の結集を求める呼びかけであるわけです。そこではみんなが同じような服に身を包み、同じような考え方をするんです。そこに美が宿るとは思いませんか?あなたがた作家は部屋に閉じこもって本を読んでいるんでしょうが、人民は部屋から出るんです。そして、毛語録を手に振りかざす群衆となるんです。『われらが神は中国人民という大衆なり』と、毛は言いました。これこそ、あなたがたが恐れることでしょう。歴史が群集の手に移るというこのことこそが」

 

「君が問いかけなくちゃいけないことは、どれほど多くの人間が死んだかってことだ。どれほど多くの人間が文化大革命にさなかに命を落としたことか?どれほど多くの人間が大躍進の末、犠牲となったことか?それに、毛が死者をどうやってうまく隠したかってことだ。これこそ問いかけなくちゃならないもう一つの問題なんだ。連中は自分たちが殺した何百万人もの人々の始末をどうつけたんだ?」

「殺戮はこれからも起こるでしょう。大量虐殺ってものは常にそれ自体何かを物語っています。とてつもない死、数え切れないおびただしい死、こうしたものは所詮、時間と空間の問題でしかないわけです。指導者は、そうしたことを引き起こす力がいかなるものか解釈するだけのこと」

 

「ところで、もし僕がベイルートへ出かけていって、君が興味を持っている精神的連帯とやらを実現したとしたらどうなる?つまりラシッドと話をするとしたら。やつは人質を解放すると見ていいのか?その見返りに何を求めてくる?」

「人質をあなたと取り代えたいと望むでしょうな」

「最大限の注目を集めておいて、最も有利な潮時を見計らって僕を解放するんだな」

「最大限の注目を集めておいて、それからおそらく十分後に殺すでしょう。それから、あなたの死体の写真を撮って、それを最も効果的に使えるときまで手元に取っておくんです」

「やつにすれば、僕の写真よりも、僕自身の方が価値があるんじゃないのか?」

「人質を捜索しようと、シリア軍が南部一帯の郊外を掃討してるんです。だから、いつも人質を移動させなくちゃならない。率直に言って、ラシッドがそんな面倒なことをするはずもない」

「じゃあ、もし僕がこのまま飛行機で帰国してしまったらどうなる?」

「人質を殺すでしょう」

「それで、そいつの死体を写真に収めるってわけか」

「ないよりはましですから」と、ジョージは言った。

 

『マオⅡ』