ただの呻き声

彼女は当てもなく歩いた。百六十丁目を西に向かって歩き、理髪店やレコード店、果物市場やパン屋を通り過ぎた。南に曲がって五ブロック行き、右を見ると、古びた御影石の高い壁があった。その上を高架鉄道が通っており、通勤客を市の中心部に送迎している。彼女はすぐにローゼレン・Sのことを考えたが、なぜかはわからなかった。しばらく同じ方向に歩いて行くと、「大ハイウェイ悪魔祓い寺院」という看板のある建物に突き当たった。彼女は一瞬立ち止まり、その名前を頭で反芻した。そして入口の上の飾り立てた片蓋柱と、屋根の縁にある石の十字架に気づいた。正面の看板には寺院の活動が列挙されている―日曜学校、日曜早朝礼拝、金曜悪魔祓い、聖書研究。彼女は立ち止まって考え、アプター医師との会話を思い出した。ローゼレン・Sが自分の家を思い出せなくなった日についての会話。そのときのことがリアンに付きまとっていたのだ―物事が崩れていく瞬間の、息を呑むような感覚―道路が、名前が、方向や位置のありとあらゆる感覚が、そして固定した記憶の網の目がバラバラになっていく。いま彼女はなぜローゼレンがこの街路に潜んでいるように思われるのかを理解した。この場所なのだ、ハレルヤを叫ぶような名の寺院にローゼレンは逃げ込み、助けを求めたのだ。彼女は立ち止まって考えた。そしてローゼレンの言葉を思い出した。彼女が出席できた最後のセッションでどんな言葉を使っていたか。いかにひとつの単語を様々に拡張し、発展させたか―あらゆる活用形や連結語を使って。それはおそらくある種の防衛手段だったのだ。最後の空白の状態に対抗するための蓄積―その最後のとき、最も深い呻き声は悲観の声ですらなく、ただの呻き声になる。

私たちはさようならというのかしら。そう、行く、行きます、行けば、最後に行った、これから行こう。

これしか彼女には思い出せなかった。ローゼレンが最後の紙に書いた、ぐにゃぐにゃの文字。

 

『墜ちてゆく男』

でも訊いたって、言わないでしょ

ケイティは玄関までついて来た。この娘は赤いジーンズの裾を折り曲げてはき、スエードのアンクルブーツをはいていた。歩くと、ブーツの縁飾りのあたりが蛍光色に輝いた。弟のロバートは後ろでもじもじしていた。この黒い目の少年は、話すことも食べることも犬の散歩もできないくらいシャイに見える。

電話が鳴った。

リアンはケイティに言った。「もう空を見るのはやめたんでしょ?昼も夜も空を見張るのは?そうよね。それともまだやってるの?」

娘はジャスティンを見つめ、何も言わずに、いたずらを一緒に企んでいるような笑みを浮かべた。

「あの子は話してくれないの」とリアンは言った。「何度も何度も訊いたんだけど」

ジャスティンは言った。「訊いてないじゃないか」

「でも訊いたって、言わないでしょ」

ケイティの目は輝いた。彼女はこれを楽しんでいたのだ、巧みに言い逃れをしなければならない場面を想定しながら。彼女の母親はキッチンの壁に取り付けられた電話で話していた。

リアンは娘に向かって言った。「まだお告げを待ってるの?飛行機が来るのを待ってる?昼も夜も窓から外を見て?そうじゃないわよね。信じられないもの」

彼女は娘の方に身を傾け、舞台での囁き声のように話しかけた。

「まだその人と話しているの?例のあの人―その人の名前を大人たちは知ってはいけないことになっているのよね」

弟は気まずそうな顔をしていた。ケイティの四メートルほど後ろで黙りこくり、姉の足と足のあいだの寄せ木細工の床を見つめている。

「その人はまだあそこに―どこかに―いて、あなたたちに空を見張らせているの?大人たちが名前を知ってはいけないことになっているあの人。でも、みんな知ってるんだけど」

ジャスティンは彼女の肘からジャケットをひったくった。これは、早く帰ろうという合図だった。

「もしかしたら―あくまでもしかしたらだけど。私はこんなふうに考えているの。もしかしたら、あの人はもう消える時期なんじゃないかしら。みんなが名前を知っているあの人は」

彼女はケイティの顔に手をやり、耳から耳まで顔を包み込んで、撫でてやった。キッチンではイザベルが声を張り上げ、クレジットカードの問題を話していた。

「たぶんその時期なのよ。そうじゃないかって思わない?もしかしたら、あなたももう興味がないのかも。イエス、それともノー?もしかしたら―あくまでももしかしたらだけど―空を見張るのもやめるべき時期なんじゃない?いま話題にしているあの人のことを話すのもやめる時期。どう思う?イエス?それともノー?」

娘の顔は前のように幸せそうではなくなった。彼女は左にいるジャスティンの方に視線を送ろうとした―“どういうことになってるの?”とでも言いたげに。しかしリアンは娘をさらに引き寄せ、右手を使って彼女の視線を遮った。そして、ふざけている表情を装って微笑んだ。

弟は自分を見えなくしようとしているようだった。彼らはどぎまぎし、少し怯えていたが、彼女がケイティの顔から手を離したのはそのせいではなかった。もう立ち去るつもりだったからだ。

エレベーターまで歩き、二十七階からロビーまで下りながら、彼女は例の神秘的な人物について考えていた。飛行機がまたやって来ると言った人物、皆が名前を知っているあの男。しかし、彼女はその名前を忘れてしまった。

雨は小降りになり、風も静まっていた。彼らはひと言もしゃべらずに歩いた。彼女は名前を思い出そうとしたが、どうしてもできなかった。子供は広げた傘の下を歩こうとせず、四歩ほど遅れてついて来る。あれは簡単な名前だった―そこまでは彼女も覚えていた。しかし、簡単な名前こそ、彼女は苦手だったのだ。

 

『墜ちてゆく男』

彼または彼女の鳥

彼らは音を消してテレビを見ていた。

「父が自殺したのは、私が誰だかわからなくなった姿を私に見せたくなかったからよ」

「それを信じるのかい」

「ええ」

「じゃあ、僕も信じるよ」と彼は言った。

「いつか私のことがわからなくなるだろうという事実」

「信じるよ」

「まさにその理由で自殺したの」

彼女は一杯余計にワインを飲んで、少し酔っ払っていた。彼らは深夜のニュース番組を見ていた。コマーシャルが終わったとき、彼は音量ボタンを押そうかと思ったが、そうせず、彼らはそのまま音のないテレビを見続けた。特派員がアフガニスタンだかパキスタンだかの荒涼とした風景に立ち、肩越しに遠くの山を指差している。

「彼に鳥の本を買ってあげないと」

「ジャスティンに」

「いま鳥の勉強をしているの。それぞれの子供が一種類の鳥を選び、それについて勉強する。彼または彼女の鳥ってことになるの。彼または彼女の羽のある脊椎動物。男の子の場合は彼で、女の子の場合は彼女」

テレビでは、航空母艦のデッキから戦闘機が飛び立つ資料映像を流していた。彼は彼女が音量ボタンを押してというのを待っていた。

「ジャスティンはチョウゲンボウの話をしてるわ。チョウゲンボウって何?」と彼女は言った。

「小さなタカだよ。送電線に止まっているのをよく見たな。西部のどこかにいたとき、何マイルも続いていた。まったく別の人生を生きていたときの話だね」

「別の人生」と彼女は言い、笑った。そして椅子から立ち上がり、浴室に向かった。

「出るときは何か着てきなよ」と彼は言った。「そうすれば、きみが服を脱ぐところを見られるから」

 

『墜ちてゆく男』

持ち主のわからない荷物

真実は、ゆっくりだが確かな衰弱という形を取っていた。グループのメンバーひとりひとりはそのことを知りながら暮らしていた。リアンにとって、カーメン・Gのケースは最も受け入れ難いものだった。カーメンの中では、二人の女性が同時に共存しているようなのだ。ひとりはここに座って、時を経るうちに攻撃性を失い、人格的にぼやけてきて、言葉も拙くなっている女。もう一人は若くてスリムですごく魅力的な女。それは、リアンが想像するに、無鉄砲な青春期の彼女だった。活力とユーモアに溢れ、歯に衣着せぬ女。ダンスフロアをくるくる回っている彼女。

リアン自身、父親の遺伝子を受け継いでおり、血小板と神経原繊維に症状が出る可能性を抱えているため、この女を注視し、その退行に気づかずにいられなかった。記憶を失い、人格やアイデンティティを失って、ついには恍惚状態に陥ること。彼女が書き、読み上げた文には、自分の一日をたどるものがあり、前日の出来事を書いたことになっていた。皆がこうしたものを書くと同意したわけではない。カーメンは、次のようなことを書いていた。

朝起きると、みんながどこに行ったのだろうと思います。ひとりぼっちですが、それは私がそういう人間だからです。私はほかの人たちがどこにいるのかと考えています。すっかり目覚めたのに、寝床から出たくありません。まるで、寝床から出るには書類でも必要とされるみたいです。入国証明、住居証明、社会保障カード。写真入身分証明書。私の父は汚いジョークも平気で口にしました。子供はこういうことも学ばなければいけないと言っていたのです。私は二人の男と結婚しましたが、その二人は手以外はどこも似通っていませんでした。私は今でも男の人の手を見つめてしまいます。だって、誰かが言ってたけど、誰でもみな脳を二つもっていて、今日はどちらの脳が働いているかが重要なんです。どうして寝床から出ることが世界で一番大変なことなんでしょう。私にはしょっちゅう水をあげなくてはいけない鉢植えがあります。鉢植えが仕事だなんて考えたこともなかったけど。

ベニーは言った。「あんたの一日ってのはどこに行っちゃったんだい?自分の一日をたどるって言ったじゃないか」

「これが最初なの、目覚めてから十秒間くらい。まだ寝床にいるのよ。次にここに集まるときには、ベッドから出るところまで行くかもね。その次は手を洗うまで。それが三日目でしょ。四日目には顔を洗うところ」

ベニーは言った。「みんな、そんなに長生きできるかね?あんたがトイレに行くころにはみんな死んでるよ」

それからリアンの順番になった。彼らは質問し、先をせがんだ。みなテロ事件について何かしら書き、何かしら発言してきた。それをまた持ち出したのはオマー・Hだった。すごく熱心に、右手を挙げて言った。

「あれが起きたとき、どこにいたかね?」

もうほとんど二年になる。このストーリーラインのセッションが始まったのは、ちょうど彼女の結婚生活が夜空に消えて行きそうになっていた頃だった。それ以来、彼女はこうした男女が語るのを聞き続けてきた。彼らが自分たちの人生をおかしく、刺激的に、率直に、あるいは感動的に語るのを―彼らの信頼感を結びあわせて。

私も彼らに物語の借りがあるのではないかしら?

玄関にキースが立っていた。始まりはいつもそう、そうでなければならない。すさまじい姿だが、生きている夫が現れたのだ。彼女は出来事の順序を追おうとした。語りながら、彼の姿が見えた。反射した光の中に漂う姿、バラバラになり、つぎはぎだらけのキース。言葉は次々に出て来た。自分が覚えていたとは知らなかったことを思い出した。彼の目蓋に刺さった光るガラスの欠片は、そこに縫い込まれたかのようだった。そして彼らが病院まで歩いて行ったこと。九ブロックか十ブロック、ひと気のほとんどない街路を、立ち止まりながら、深い沈黙に沈んで。助けてくれた若い男、配達員のこと。その男の子が片手でキースを支え、もう片方の手でピザの箱を持っていた。彼女はもう少しで訊ねそうになった。いったい誰がテークアウトのピザを注文する電話をかけられたのか?電話はつながらなかったのに?背の高い、ラテン系の男の子、でもそうじゃないかもしれない。彼はピザの箱の底を手のひらで支え、体から離して、バランスを取っていた。

彼女は物語の焦点がぼけないようにしたかった。ひとつのことがきちんと次のことにつながるように。話しているというより、時間の中に消えていくような感じのときもあった。つい最近の過去、一か所に集中していく流れの中に戻っていく。彼らは静まり返り、彼女をじっと見つめていた。人々は最近、彼女を見つめるようになった。彼女は見られることを求めているようなのだ。彼らは彼女に依存している、彼女が意味のある物語を語ってくれることに。彼女の側から言葉が出てくるのを待っている。そこに何か堅固なもの、崩れないものがあると信じて。

彼女は息子について話した。子供が近くにいるとき―目に入るところ、あるいは触れるところにいて、自分の意志で動いているようなときは―恐怖が和らぐ。それ以外のときに子供のことを考えると、怖くならずにいられない。それは実体のないジャスティン、彼女が作り出した子供だからだ。

持ち主のわからない荷物、と彼女は言った。紙袋に入った弁当も恐ろしい。あるいはラッシュアワーの地下鉄、地下の密閉された箱の中にいるときなど。

彼女は息子が眠っているところを見られなかった。未来が侵略してきた時点で子供になった息子。子供たちは何を知っているのだろう?彼らは自分たちが何者であるかを知っている―我々には理解できない形で、そして彼らが我々に説明できない形で。そう彼女は言った。いつもの数時間が流れていくとき、凍りついた数秒間がある。息子が眠っているところを見ると、これから起きることを考えずにいられなかった。それが彼の沈黙の一部。沈黙した彼方に人影が浮かび、窓に貼りついている。

疑わしい行動や持ち主のわからない荷物に気づきましたらお知らせください。こういう文句だったわよね?

彼女はブリーフケースのことも話しそうになった。それが現れて、消えたという事実。それが何かを意味するとすれば、何なのか。話したかったが、話さなかった。すべてを語り、すべて打ち明けたかった。彼らに聞いてほしかった。

 

『墜ちてゆく男』