紙を考えてるんだよ、体じゃなくて

二つの暗いオブジェ、白いボトル、積み重ねられた箱。リアンは絵から目を逸らし、部屋全体を静物画のように見た、一瞬だが。人間の身体が現れてきた、母とその恋人。ニナはまだ肘掛け椅子に座っていて、ぼんやりと何か考えている。マーティンはソファの上で体を丸め、彼女と向き合っている。

ついに母が言った。「建築物、確かにそうね、たぶん。でも、まったくほかの時代のものよ、ほかの世紀の。オフィスタワーじゃないわ。この形は現代のタワーには変換できないわよ、ツインタワーには。これは、そうした拡張や投影を許さない作品。見る者を内面に向けさせるのよ、奥深くに。ここに見えるのはそれ、半分埋もれているもの。物体よりも、あるいは物体の形よりも、何か深いもの」

一瞬の光が閃くように、リアンには母が次に言う言葉がわかった。

「死ぬ運命にあるっていうことについて。そうじゃない?」

「人間であること」とリアンは言った。

「人間であること、死ぬ運命にあると言うこと。こうした絵は、ほかのすべてを見なくなったときに目を向けるものだと思うわ。ボトルや壺を見るの。ここに座って、じっと見つめる」

「もうちょっと椅子を近づけないといけないんじゃない」

「椅子を壁にくっつけるわ。管理人さんを呼んで、椅子を押してもらう。自分ではそれができないくらい弱っているだろうからね。じっと見つめて、考える。じゃなきゃ、ただ見つめる。しばらくしたら、絵も必要としなくなる。絵は余計なものになる。壁を見つめるのよ」

リアンはソファまで歩いて行き、マーティンの腕を軽くつついた。

「あなたの壁はどうなの?何が掛かってる?」

「うちの壁は剥き出しだよ。家であると同時にオフィスだから。何も掛けないんだ」と彼は言った。

「まったく何も掛かってないわけじゃないわ」と二ナが言った。

そうだな、まったく何もってわけじゃない」

彼女は彼を見つめていた。

「私たちに神のことを忘れろって言うのね」

それはずっと続いていた議論だった。空中にも、肌にも染み込んでいた。しかし口調の変化は唐突だった。

「これが歴史だって言うのね」

ニナは彼を見つめた、激しい視線をマーティンに向けた。彼女の声には非難が込められていた。

「でも、神のことが忘れられないのよ。彼らがいつでも神を引き合いに出すんだから。それが彼らの最古の拠り所だし、最古の言葉なの。そう、ほかにもあるけど、それは歴史や経済ではない。男たちが感じることよ。男たちの中で起こること。ひとつの考えが流布し出すと、血が沸き立つの。その背後に何があろうと―どんな闇雲な力、鈍感な力、暴力的な欲求であれ。すごく便利なわけよ、そうした感情やそうした殺人を正当化するような信仰体系が見つけられればね」

「でも、その信仰体系はあれを正当化していないよ。イスラム教はあれを認めていないんだ」

「あれを神と呼んでしまえば、神ってことになるの。神が許すものは何でも神なのよ」

「それがすごく奇怪だってわかってる?自分が何を否定しているかわからないかな?きみはあらゆる人間が他者に対して持ちうる不平不満を否定しているんだ。人々を対立させてきた、歴史のありとあらゆる力を」

彼はうずくまり、彼女の方へ体を傾けて目を凝らしていた。

「彼らがきみたちを殺せば、きみたちは彼らを理解しようとする、おそらく最後には、きみたちも彼らの名前を覚えるだろう。でも、そのためには、まずきみたちを殺さないといけないんだ」

議論はしばらく続き、リアンはずっと聞いていたが、彼らの声の熱意には不安を感じた。マーティンは片手でもう一方の手を掴み、議論に包み込まれるように座っていた。そして、失われた国土、失敗に終わった国家、外国の介入、金、帝国、石油、西洋人の自己中心主義などについて語った。それを聞いて、リアンはどうしてマーティンがあのような仕事ができるのだろうかと考えてしまった。芸術品をあちこち動かし、利益を得て、生活しているなんて。そして自分の壁には何も掛かっていないなんて。彼女にはそれが不思議だった。

ニナは言った。「タバコを吸わせていただきますからね」

これが部屋の緊張感を解いた、彼女が深刻な言い方をしたことによって。この声明と行動が、議論していたことの深刻さに合わせるかのように、重大そうな雰囲気を持っていたのだ。マーティンは笑い、うずくまっていた体を伸ばして、キッチンへ次のビールを取りに行った。

「私の孫はどこにいるの?クレヨンで私の肖像画を描いてくれているの」

「お母さん、二十分前にもタバコを吸ったわよ」

「絵のモデルをやってるんだから、リラックスしなきゃいけないのよ」

「あと二時間で学校が終わるわ。キースが迎えに行くの」

「ジャスティンと私、肌色について、体の色合いについて話さないといけないのよ」

「あの子は白が好きなの」

「すごく白いって考えてるみたい。紙みたいに」

「目には明るい色を使うわ。髪の毛にも、たぶん口にも。でも体の色になると、白く見えるみたい」

「紙を考えてるんだよ、体じゃなくて。作品自体が事実を表している。肖像画の主題は紙なんだって」

マーティンが入って来た。グラスの縁からビールの泡をすすっている。

「白いクレヨン、もっているのかしら?」

「白いクレヨンは必要ないの。白い紙があるんだから」と彼女は言った。

彼は立ち止まり、南側の壁に貼られた年代物のパスポート写真を見つめた。古びて染みのついた写真。ニナは彼を見つめた。

「すごく美しいし、威厳があるわ」と彼女は言った。「こういう写真と、写っている人々って。ついこの間パスポートを更新したの。十年間があっという間に経っちゃった。紅茶を一口すするみたいに。写真写りなんて気にしたことなかったんだけど―ほかの人たちが気にするみたいには―でも、今度の写真にはゾッとするわ」

「どこへ行くの?」とリアンは訊ねた。

「どこかに行かなくたって、パスポートは取得していいんだよ」

マーティンが彼女の椅子のところまで来て、すぐ後ろに立った。そして彼女にもたれかかりながら、優しい声で話した。

「どこかへ行った方がいいよ。長旅をね、コネティカットから帰ったらだけど。今は誰も旅をしないだろ。考えてみるべきだよ」

「その気になれないわ」

「ずっと遠くへさ」と彼は言った。

「ずっと遠くへ」

「カンボジアとか。ジャングルに完全に覆われてしまう前にね。きみがよければ一緒に行くよ」

母は一九四〇年代のギャング映画の女性のようにタバコを吸った。危機一髪の緊張感を孕む、白黒映画の一シーンのようだ。

「パスポート写真の顔を見るとね、こう思うわけ。誰、この女?」

「洗面台から顔を上げるときだな」とマーティンは言った。

「誰、この男って?自分の顔を鏡で見ているはずなんだけど、自分じゃないのよね。自分の顔はこんなじゃなかったと思うわけ。文字通りの自分の顔じゃない―そんなものがあればだけど。何か、合成された顔なのよ。変化しつつある顔っていうか」

「そんなこと言わないでくれよ」

「あなたが見ているものは私たちが見ているものとは違うのよ。あなたが見ているものは記憶によって歪んでしまっている。ずっとこの期間、この数十年、どういう人間であったかによって」

「そんなこと聞きたくないな」と彼は言った。

「私たちが見ているのは生きた真実よ。鏡は、本当の顔を覆ってしまうことによって、衝撃を和らげている。顔はあなたの人生そのもの。でも、顔は人生の中に埋もれてしまってもいる。だからあなたにはそれが見えない。ほかの人たちにだけ見えるのよ。それからもちろん、カメラにも」

彼はグラスに向かって微笑みかけた。ニナはタバコを消した、ほとんど吸っていないのに。染みのような煙の流れを手で払いのけた。

「それに顎髭があるわ」とリアンは言った。

「顎髭は顔を隠すのに役立つのよ」

「顎髭ってほどのもんじゃないけど」

「でも、そこが芸の細かいところ」とニナが言った。

「だらしなく見せるっていう芸」

「だらしないけど、すごく繊細って感じ」

「これって、アメリカ的ジョークだな。そうだろ?」と彼は言った。

「顎髭はうまい仕掛けよね」

「髭に向かって話しかけるんだよ」とニナは言った。「毎朝、鏡に向かってね」

「何て話しかけるの?」

「ドイツ語でしゃべるんだよ。顎髭はドイツ国籍だから」

「おだててくれるじゃないか」と彼は言った。「こんなジョークのネタにしてくれるんだからな」

「鼻はオーストリア―ハンガリー国籍」

彼はニナの後ろに立ったまま身を傾け、手の甲で彼女の顔に触れた。それから空のグラスをもってキッチンに行き、二人の女はしばらくそのまま黙り込んでいた。リアンは家に帰って眠りたかった。母は眠そうだったし、彼女も眠りたかった。家に帰り、キースとしばらく話をしてからベッドに入り、眠り込みたかった。キースと話をし、あるいはキースと話をせずに。いずれにしても、家に戻ったとき、彼にいてほしかった。

マーティンは部屋の向こう側から話しかけ、女たちを驚かせた。

「彼らは世界に自分たちの居場所が欲しいんだよ。自分たちの地球規模の連合体が欲しいんだ、我々の連合体ではなく。恐ろしい戦争だってきみは言うけど、それはいたるところにあるし、理に適ったものなんだよ」

「私、だまされてたわ」

「だまされちゃダメだよ。人間が神だけのために死ぬなんて思っちゃいけない」と彼は言った。

携帯電話が鳴ったので、彼は体の位置を変えた。壁に向かい、胸に話しかけるかのように話していた。リアンは以前にもこういう会話の断片を聞いたことがあった。遠くから聞こえてくる会話には、相手が誰かによって、英語、フランス語、ドイツ語などのフレーズが含まれていた。そしてときには、ブラックとかジャスパー・ジョーンズといった宝玉のような言葉も聞こえてきた。

彼は用件を急いで済まし、携帯電話をしまった。

「旅、そうだよ、それこそ考えてみるべきだ」と彼は言った。「膝が正常に戻ったら、ぜひ行こう、本気でね」

「ずっと遠くへ」

「ずっと遠くへ」

「廃墟へ」と彼女は言った。

「廃墟へ」

「ここにも廃墟はあるわ。でも、わざわざ見に行きたいとは思わない」

彼は壁沿いに歩いて、ドアの方に向かった。

「でも、そのためにタワーを建てたんじゃないのかな?富と権力の幻想としてのタワー。それは、いつの日か破壊の幻想になるように建てられたんだ。そうじゃない?ああいうものを建てるのは、それが崩れ落ちるのを見られるようになんだよ。挑発的な意味は明々白々だ。ほかに理由なんてあるかい、あんなに高くして、それをダブルにするなんて?同じことを二回するなんて?これは幻想なんだから、二度やったっていいだろって言ってるんだ。さあ、できた、壊そうぜって」

それから彼はドアを開け、外に出て行った。

 

『墜ちてゆく男』

範囲外

それから二人は近くの本屋に入って、長い通路を歩いた―涼しくて落ち着いた空間。何千冊もの本が、テーブルや棚の上で輝いている。静かな場所、夏の日曜日。子供は猟犬の物真似を始めた。本を見つめ、匂いをクンクンと嗅いでいたが、触りはしない。指の先で顔を押し、顎が垂れ下がるようにしていた。彼女はそれがどういう意味かはわからなかったが、次第にわかってきたのは、彼が彼女を楽しませようとしているわけでも、困らせようとしているわけでもないということだった。その行動は彼女の影響の範囲外で、彼と本とのあいだのものなのだ。

彼らはエスカレーターで二階に昇り、しばらくの間、本を見て回った。科学の本、自然の本、外国旅行、フィクション。

「学校で教わったことの中で、一番よかったことって何?最初までさかのぼって、最初の日から考えて」

「一番よかったこと」

「最大のこと。言ってごらんよ、坊主」

「お父さんみたいな言い方だね」

「その穴を埋めているのよ。二重の役割を果たしているの」

「お父さんはいつ帰って来るの?」

「八日か九日後かな。一番よかったことは何?」

「太陽は星である」

「教わったことの中で一番よかったこと」

「太陽は星である」と彼は言った。

「でも、それは私が教えたんじゃない?」

「そうじゃないと思うよ」

「それは学校で教わったことじゃないわよ。私が教えたのよ」

「そうじゃないと思う」

「家の壁に星図が掛かってるでしょ?」

「太陽は壁の星図にはないよ。あれは外にあるんだ。上にあるわけじゃない。上も下もないんだよ。ただ、どこか外部に存在してるんだ」

「じゃなきゃ、私たちがここという外部に存在しているのね」と彼女は言った。「その方が真実の状態に近いかも。私たちこそ、どこか外部に存在しているのよ」

二人はこれを楽しんでいた、ちょっとしたからかいや冷やかし。背の高い窓辺に立ち、行進が終わるところを見ていた。旗が下げられ、畳まれている。群衆は四方八方に去っていく。公園に向かう者、地下鉄に降りる者、あるいは横町に入っていく者。ある意味で、彼が口にした文章は驚くべきものだった。ひとつの文章、五つの単語。それだけで、存在しているすべての事物に関してすべてのことを言っている。「太陽は星である」。このことを彼女自身はいつ気づいたのだろう?いつ気づいたかをなぜ覚えていないのだろう?「太陽は星である」。これは天啓のようなものではないか。我々が何者であるかを考える上での、新鮮な見方。もっとも純粋だが、最後にようやく開けてくる見方。ある種の神秘的な戦慄、覚醒。

 

『墜ちてゆく男』

死に至る病

彼はテレビでポーカーを見ていた。砂漠のカジノ・コンプレックスでプレーする者たちの、苦痛に歪む顔。彼は興味もなく見続けていた。これはポーカーではない。テレビだ。ジャスティンが入って来て、一緒に見始めた。そこで彼はゲームのルールを説明してやった―途切れ途切れに―プレーヤーがゲームを中断させたり、掛け金を上げたり、戦略が明らかになったようなときに。それからリアンが入って来て、フロアに座り、息子を見つめていた。息子は体を大胆に傾けて座っている、ほとんど椅子には触れずに。そして魅入られたように光を見つめている。UFOに誘拐される瞬間のようだ。

彼女はテレビ画面を見つめた。クローズアップになった顔を。ゲーム自体には何も感じなくなっていた。カードをめくっただけで十万ドル稼いだり損したりするつまらなさ。そんなの何も意味しない。彼女の関心や共感の埒外だった。しかし、プレーヤーたちには興味をそそられた。彼女はプレーヤーたちを見つめ、引き込まれた。無表情で、眠そうで、前屈みになった男たち。不運に見舞われた男たちを見ていると、彼女の心はなぜかキルケゴールに飛躍した。キルケゴールの本を読みながら過ごした長い夜を思い出した。彼女はテレビ画面を見ながら、北国の荒涼とした夜を、砂漠に間違って置き忘れられた顔を想像した。ここには魂の戦いがあるのではないか?継続するジレンマの感覚が―勝者になったときの小さな瞬きにも?

彼女はそのことについて何もキースには言わなかった。彼は体を半分彼女の方に向け、考え込むようなふりをして虚空を見つめるだろう。口を開け、目蓋をゆっくりと閉じていき、やがて頭を胸のところまで沈めるだろう。

彼はここで暮らしていることについて考えていた―キースは。あるいは考えているのではなく、ただ感じていた、気づいていた。彼は彼女の顔がテレビ画面の隅に映っているのを見た。カードプレーヤーたちを見て、彼らの戦略と、それに対抗する策略に注目していたが、同時に彼女のことを見ていた。そして、それを感じていた。彼らとともにここで暮らしているという感覚を。彼はシングルモルトのスコッチウィスキーを握り締めていた。街路からは車の盗難警報器の音が聞こえてきた。彼は手を伸ばし、ジャスティンの頭を叩いた―ノックノック―もうすぐ起こる展開に注意を促すために。カメラはひとりのプレーヤーの切り札を捉えている。そのプレーヤーは自分が死んでいることをまだ知らない。

「あいつは死んでるよ」と彼は息子に言った。子供は何も答えず、腰を下ろす途中のような斜めの体勢を保っていた。半分椅子に、半分床に腰を掛け、半分催眠術にかかったかのような表情をしている。

彼女はキルケゴールの古臭さが好きだった、彼女が持っていた翻訳の大げさな語り口が。古いアンソロジーの破れやすいページには、赤いインクで下線が引かれていた。母親の家族の誰かから譲り受けた本。これこそ、彼女が寮の部屋で夜遅くまで繰り返し読んだものだった。吹き溜まりのような紙の山、服、本、テニス用品に囲まれて―よく彼女はそれを溢れ出る精神の客観的相関物というふうに考えていた。客観的相関物って何だろう?認知的不協和って何?かつてはそういう問いへの答えを知っていたような気がする。彼女はキルケゴールのKierkegaardというスペリングまで好きだった。スカンジナビア系の堅いkの音と、aが二つ並ぶ可愛らしさ。母はしょっちゅう彼女に本を送ってきた。分厚くて読みにくい小説、まったく隙がなく、情け容赦のない代物。それは彼女の切なる願い―自我の認識を求め、精神と心にもっとも近いものを求める気持ち―を打ち砕いていた。彼女は熱っぽい期待を抱いてキルケゴールを読んだ。死に至る病という荒涼としたプロテスタント的な世界に真っ直ぐ進んでいった。彼女のルームメートはパンクロックの歌詞を「ピス・イン・マイ・マウス」という架空のバンドのために書いており、リアンはその女性のクリエーティヴな自暴自棄ぶりに憧れていた。キルケゴールは彼女に危機を、精神的に崖っぷちの感覚を与えてくれたのだ。「存在の全体が私を怯えさせる」と彼は書いた。彼女はこの文章の中に自分自身を見た。彼のおかげで感じ方が変わった。自分が世界に飛びこんだことは、以前思っていたような心もとないメロドラマなどではない―彼女はそう感じるようになった。

彼女はカードプレーヤーたちの顔を見つめた。それから夫の目を捉えた。画面上に反射した目、それが彼女を見つめていた。彼女は微笑んだ。彼の手には琥珀色の酒が握られている。車の盗難警報器がどこか街路で鳴っている。馴染み深いものが与える安心感、平和に更けていく夜。彼女は手を伸ばし、座っている子供を抱き上げた。彼が寝室に行く前に、キースはポーカーのチップとカードが欲しいかいと訊ねた。

答えは「たぶんね」だった。これは「イエス」ということだ。

 

『墜ちてゆく男』

測り難いもの

ラムジーは北正面玄関から遠くない小部屋に陣取っていた。ホッケーのスティックが隅に立てかけてあった。彼とキースは寄せ集めのチームでプレーしていた―チェルシー埠頭で、午前二時に。暖かい時期の昼休みには、彼らは周辺の道やプラザを散策し、小さく波打つタワーの影の下で、道行く女たちを観察した。女たちについて語り、エピソードを語り、くつろいでいた。

キースは別居し、便利さを考えて、オフィスの近くに暮らしていた。便利さを考えて食事をし、レンタルビデオを借りるときは、映画の長さを必ずチェックした。ラムジーは独身で、結婚している女と関係を持っていた。マレーシアから来たばかりの女性で、カナル・ストリートでTシャツと絵葉書を売っていた。

ラムジーには抑えられない衝動があった。彼はそれを友人に認めていた。何でも認め、何ひとつ隠さない男。彼は道に駐車してある車の台数を数え、一ブロック先のビルの窓の数を数えた。ここからそこまで歩くときの歩数を数えた。意識を横切った物事を記憶した―流れてくる情報を、ほとんど無意識に。数十人の友人や知人の個人情報を暗唱できた―住所、電話番号、誕生日。不特定のクライアントのファイルが彼のデスクを通過した数か月後に、その人の母親の旧姓を言えた。

それは素敵な能力とは言い難かった。この男にはあからさまに哀れっぽいところがあった。ホッケーのリンクで、ポーカーで、彼らはお互いにわかり合えた―彼とキースは―チームメートとしても敵としても、互いに相手の意図を直感的に悟った。彼は多くの点で平凡な男だった、ラムジーは。肩幅が広く、ずんぐりしていて、気質は穏やかだったが、ときにその平凡さを最も深いところまで突き詰めた。彼は四十一歳で、背広にネクタイを締めて遊歩道を歩いた。打ちつけるような熱波の中、爪先の見えるサンダルをはいた女を探していた。

そうなのだ。彼は女性の足の先端部分を成す指の数を数えずにいられなかった。それを認めていたし、キースは笑わなかった。人間が誰しも日常的にする営みとして、測り難いものとして見ようとしていた。人間は―我々誰もが―他人に見せている生活以前の時間に、何らかの形でそういうことをしているのだ。彼は笑わなかったが、後から笑った。しかし彼にはわかっていた。そうした異常な執着が性的な目的に向かっているのではないということが。数えることが問題なのだ、結果は最初から分かっていても。片方の足の指。もう片方の足の指。合計は必ず十になる。

キースは長身で、ラムジーよりも五、六インチ背が高かった。彼は友人の頭が薄くなりつつあるのに気づいていた。男性特有の禿げが、見たところ週ごとに進んでいる。昼の散歩や、ラムジーが小部屋でだらりと座っているようなとき、あるいはサンドイッチを両手で掴み、食べようとして頭を下げたようなときに。彼はどこへでも水のボトルを持ち歩いていた。運転しているときでも、ナンバープレートの数字を暗記していた。

キースが付き合っていた女性には糞ガキが二人いた。糞遠いファーロッカウェイに住んでいた。

ベンチや階段にいる女たち。読書をしたり、クロスワードパズルをしたり、顔をのけぞらせて陽に当たったり、ヨーグルトを青いスプーンですくったり。そのうちの何人かはサンダルをはいて、爪先を見せている。

ラムジーは目を伏せて、氷上のパックを追い、ボードに体をぶつける。逸脱を求める欲求が、数時間の強烈な幸福によって放たれる。

キースは進まずに走り続けている、スポーツジムのトレッドミルの上で。頭の中で声がする―たいてい自分の声―ヘッドフォンをして、本の朗読テープを聴いているときでも。本は科学書か歴史書だ。

数えれば十になった。だからといって挫けたり、やめたりすることはなかった。十という数字はそれ自体が美しい。おそらく十になるからこそやるんだ。同じ結果を得るために、とラムジーは言った。持続するもの、一箇所にとどまるものを求めて。

彼の恋人は、夫を含む三人の親戚と経営しているビジネスに投資してくれとラムジーに頼んでいた。彼らは在庫を増やしたいのだ。ランニングシューズと家電製品を増やしたいのだ。

爪先は、それがサンダルで区切られていなければ、意味がない。ビーチにいる裸足の女たちは、足に注意を引くようなことはしていないのだ。

彼はクレジットカードのボーナスマイルをため、いろいろな都市に飛行機で飛んでいた。行く都市は、厳密にニューヨークからの距離だけで選んでいた―マイレージを使うというだけの目的で。そうすることで、精神的な信用度(クレジット)を満たしているような気になっていた。

爪先の見えるサンダルをはいた男もそこここで見かけた―街や公園で。しかし、ラムジーは彼らの足指を数えることはしなかった。したがって、どうやら重要なのは数えることだけではないようだった。女性であることにも要因を見なければいけなかったのだ。彼はこれを認めていた。彼は何でも認めた。

この男がこうした欲求をしつこくもち続けているところには、ある種の歪んだ魅力があった。それはキースの目を、もっとぼんやりしたものへと―奇妙な角度で―向けさせることになった。人間の中に潜んでいる、修復不能でありながら、温かい感情を彼の中に掻き立てることのできる何か。稀にしか見られない、親密な色合いをもつもの。

ラムジーの禿げは、それが進んでいくにつれ、物静かなメランコリーを帯びるようになった。挫折した少年のような、憂いに沈む後悔の念。

彼らは一度だけ喧嘩したことがあった。氷上で、チームメートでありながら、乱闘騒ぎのときに間違って殴り合ったのだ。キースはこれを可笑しなことだと思ったが、ラムジーは怒り、金切り声で非難した。キースが最後に放った二、三発のパンチは、殴っている相手がラムジーだとわかったあとでわざとやったものだと言い張った。そんなことはない、とキースは言ったが、実のところはそうかもしれないと思っていた。というのも、一度ああいうことが始まってしまったら、それを止める手段なんてないではないか?

彼らはそのときタワーに向かって歩いていた。人々の群れが大きくうねり、交差し合う中を歩いていた。

いいだろう。でも、もし足の指の合計が十にならなかったらどうする?たとえば地下鉄に乗っていて、目を伏せて座っている―とキースは言った―きみはぼんやりと通路を見ている。そしてサンダルを見つけ、足の指を数えてみる。もう一度数える。それでもやっぱり九しかない、あるいは十一ある。

ラムジーはその質問について考え込んだまま空中の小部屋に戻り、あまり魅力的でない仕事を再開した。金と資産、契約と所有権。

次の日、彼は言った。その人にプロポーズするよ。

さらにあとで、こう言った。だって、癒されたってことに気づくと思うんだ。ルルドの泉みたいなもんさ。これで数えることをやめられるんだ。

 

『墜ちてゆく男』