子供たちが語るお伽話

夕食のとき、彼らは学校の休み中にユタ州に行く旅行の計画について話した。高地の谷、気持ちのよい風、おいしい空気、スキーのできる斜面。子供は椅子に座り、ビスケットを握り締め、皿の料理をじっと見つめていた。

「どう思う?ユタよ。言ってごらん。ユタ。公園で橋遊びをするのと比べると、すごい飛躍でしょ」

子供は父親が仕度した夕食を見つめていた。野生のサーモンとねばねばした玄米。

「この子は何も言わないよ。単音節語の段階を卒業したんだ」とキースは言った。「単音節の言葉しかしゃべらなかった時期があったでしょ。しばらく続いたけど」

「思ったより長かったわ」と彼女は言った。

「その段階を卒業したんだ。成長の次の段階に達したんだよ」

「精神的な進歩ね」と彼女は言った。

「完全な沈黙さ」

「断固とした、破ることのできない沈黙」

「ユタは沈黙する男のための土地だな。山奥で暮らすんだろう」

「虫や蝙蝠の巣くう洞穴で暮らすのね」

子供は皿からゆっくりと顔を上げ、父親を見つめた。というか、父親の鎖骨あたりを見つめ、シャツの下の華奢な骨を透視しているかのようだった。

「単音節語でしゃべるのが学校の活動からだって、どうしてわかるの?違うかもよ」と子供は言った。「だって、もしかしたらビル・ロートンかもしれない。もしかしたらビル・ロートンが単音節語でしゃべるのかも」

リアンは背もたれに寄りかかった。ショックを受けたのだ。この名前自体に、それを子供が口にしたことに。

「ビル・ロートンは秘密なのかと思っていたよ」とキースは言った。「“シブリングス”ときみとの。それからきみとお父さんとの」

「お母さんに話したでしょ。お母さんはもう知ってるよ」

キースは彼女を見つめ、彼女は“ノー”という言葉を表情で知らせようとした。自分はビル・ロートンのことは何も言っていない、と。彼女は険しい顔をして彼を見た。目を細め、唇をきつく閉じ、その表情を彼の前脳に刻み込もうとした。“ノーよ”と。

「誰も何もしゃべってないよ」とキースは言った。「魚を食べなよ」

子供はまた皿を見つめた。

「だって、あの人は単音節語でしゃべるんだ」

「わかった。何て言うんだい?」

返事はなかった。彼女は彼が何を考えているのか想像しようとした。父親が家に戻り、ここで暮らし、ここで眠っている、以前とほぼ同じように。そして子供は、父親を信用できない人間だと思っている―そうではないか?父親のことを、家庭内に取り憑く幽霊のような存在だと見なしている。一度家を出たくせに、また戻って来て、女とまた同じベッドで寝ている。そしてその女にビル・ロートンについてすべてしゃべってしまった。この男が明日もここにいるなんてどうして信用できるだろう?

もし、あなたが何かしらの罪を犯したと子供が思い込んだとしたら、それが正しくても間違っていても、もうあなたは有罪なのだ。そしてこの場合、子供は正しかったのだ。

「かれがしゃべることは“シブリングス”と僕しか知らないんだ」

「そのうちのひとつを教えてくれないかな。単音節語で」とキースは言った。声に苛立ちが含まれていた。

「ノー・サンキュー」

「それって、彼が言ったこと?それともきみが言ったこと?」

「重要なのはさ」と子供が言った。一語一語をはっきりと、挑むような口調で発音した。「彼が飛行機について話してるってこと。また飛行機が飛んで来るんだよ。だって、彼がそう言うんだから。でも、そこまでしか話しちゃいけないんだ。彼が言うには、今回はタワーが倒れるんだって」

「タワーは倒れたのよ。わかってるでしょ」と彼女は静かな声で言った。

「今度こそタワーは本当に倒れるって言うんだ」

彼らは彼に話しかけた。彼を穏やかに諭そうとした。子供の話を聞いて、彼女は脅威を感じたが、どこにそれを感じているのかよくわからなかった。子供はテロ事件を改変し、そのことが彼女に説明のつかない恐怖を与えている。彼は実際に起きたことよりもましな出来事を作っている、タワーがまだ立っていることにして。しかし時間の逆回し、最後の邪悪な一撃、いかに「ましな出来事」が暗転するか―それらはすべて、まずいお伽話の要素なのだ。不気味だが、一貫性に欠ける物語。子供たちが語るお伽話。大人が作って、子供たちに聞かせるようなものではない。

彼女は話題をユタに変えた。スキーのコースと本当の空。

子供は皿を見つめた。魚って、鳥とどう違うのだろう?片方は飛ぶ、もう片方は泳ぐ。おそらく彼はそんなことを考えているのだろう。鳥を食べることはない―オウゴンヒワであれ、アオカケスであれ。どうして海で泳いでいる野生の魚を食べなきゃいけないんだろう?これは、ほかの一万もの魚と一緒に大きな網で捕らえられたのだ。チャンネル27でよくやっている。

片方は飛ぶ、もう片方は泳ぐ。

そう彼女は子供の中に感じた。そうしたことを頑なに考えている、ビスケットを握り締めて。

 

『墜ちてゆく男』

道徳的な欠落

それはローゼレン・Sに起きた。はるか遠い子供時代からの根本的な恐怖。彼女はどこに住んでいるのか思い出せなくなった。高架鉄道の下の街角にぽつんと立ち、すべてから切り離されて、気持ばかりが焦っていった。店や道路の標識など、手がかりになるものを探した。世界が遠のいていくという、何とも単純なことに気づいたのだ。彼女は、物事をはっきりと区別する感覚を失っていった。道に迷ったという以上に、落下し、気を失っていくようだった。彼女のまわりには沈黙と距離しかなかった。彼女は来た道を引き返そうとした。あるいは、自分が来たと思っている道を。そしてひとつの建物に入り、玄関に立って、耳を澄ませた。人々の声が聞こえたので、それを追っていくと、部屋に突き当たった。そこでは十人ほどの人たちが座って本を読んでいた。聖書だった。彼らはローゼレンに気づくと、朗読をやめ、彼女が何か言うのを待った。彼女は何に困っているかを説明しようとした。ひとりの人が彼女のハンドバックを開けて電話番号のリストを見つけ、迎えを呼んでくれた。ブルックリンに住む妹で、ビリーという名でリストに入っていた。この女性がイースト・ハーレムまで来て、ローゼレンを連れ帰った。

リアンはこのことをアプター医師から聞いた。それが起きた翌日だった彼女は数カ月のあいだ、老人たちがゆっくりと衰えていくのを見てきた。ローゼレンはまだときどきは笑うし、皮肉の感覚も損なわれていない。上品な顔立ちと栗色の肌の小柄な女性。彼らは避けられないことに近づきつつあるのだ、ひとりひとりが―もはや少しの猶予しか残されていない。この時点では、それが起きるのをただ見つめているしかないのだ。

ベニー・Tは言った。朝、ズボンがうまくはけないことがあるんだ、と。それに対してカーメンは言った。「うまく脱げないよりはいいわよ。ズボンがちゃんと脱げる限りは、セクシーなベニーのままだから」。彼は笑い、足を踏み鳴らした。そしておどけて頭を叩きながら、実のところそういう問題ではないのだと言った。彼は自分がズボンをちゃんとはけているかどうか自信が持てないのだ。ズボンをはき、ズボンを脱ぐ。ジッパーが前に来ているのを確認する。鏡で裾の長さを確かめる。折り返しが靴のすぐ上に来るように。ところが、折り返しがない。折り返しがあったのは覚えている。昨日、このズボンには折り返しがあったのに、どうして今日はないのだろう?

彼は、みんながどう思うかはわかっている、と言った。自分にとっても奇妙なことなのだ。彼は「奇妙」という言葉を使った、もっと意味深長な言葉を避けて。しかし、それが起きているときは、そこから逃れられないのだと言った。自分のものではない精神と肉体のなかに入って、着替えている自分を見ている。ズボンはうまく合わないように思われる。彼はズボンを脱ぎ、またズボンをはく。ズボンを蹴るように脱ぐ。ズボンの中を見る。これは他人のズボンではないかと思うようになる。自分の部屋で、椅子に掛かっていたズボンなのに。

皆はカーメンが何か言うのを待った。リアンも彼女がある事実を指摘するのを待った。ベニーは結婚していないという事実。あんた結婚してなくてよかったよ、ベニー。ほかの男のズボンが椅子に掛かってたら、あんたの奥さんはどう言い逃れするだろうね。

しかし、この時のカーメンは何も言わなかった。

オマー・Hはアップタウンに行った時の話をした。彼はそのグループの中でただひとり、その地域以外に住んでいた。彼が住んでいるのはロワー・イーストサイド。そこから地下鉄に乗り、プラスチックのカードをスロットに通そうとしたのだが、六回もやり直さなければならなかった。改札を変えても、「もう一度スロットに通してください」という表示が出てしまう。それからアップタウンまで長いこと電車に揺られ、気付いたらブロンクスの荒れ果てた街角に立っていた。その途中の駅をどうして飛ばしてしまったのかは見当もつかない。

カーティス・Bは腕時計が見つからなくなった。そしてついに薬棚の中で見つけたとき、それをどうしても手首に付けることができないように思われた。時計はちゃんとある、と彼は深刻な声で言った。自分の右手に握られている。なのに、右手はどうしてもそれを左手首まで持っていけそうにない。空間に空白の部分があった、あるいは視覚的なギャップが。彼の視野に裂け目があったのだ。そして彼は両者をつなげるのに時間がかかった―手から手首、リストバンドの先端からバックル。カーティスにとって、これは道徳的な欠落だった。自己を裏切るという罪。最初の頃のセッションで、彼は五十年前の出来事について書いたものを読んだ。酒場で喧嘩し、割られた壜で男を殺したのだ。男の目をガラスで突き刺し、頸動脈を切断した。彼は紙から顔を上げてこの言葉を言った、「頸動脈を切断した」と。

彼はその時と同じ慎重な口調を使った―暗く、宿命的な声―腕時計がなくなった話をするときも。

 

『墜ちてゆく男』

きみたちは不真面目だ

最初のうち、彼らは様々なバリエーションのポーカーを試してみたが、そのうち親の選択肢を制限するようになった。ある種のゲームを禁止することは、伝統や自己規律という名目でジョークとして始まったが、つまらない変則ゲームに反対する議論が沸き起こり、次第に効力をもつようになった。ついには、五十歳になろうという長老のドッカリーがストレート・ポーカーだけにするという案を主張した。古典的な形式の五札ドローポーカー、五札スタッドポーカー、七札スタッドポーカーのみ。そして、選択肢を減らすことは掛け金の上昇につながり、一晩で大きく負けた者が小切手を書くときの仰々しさが増した。

彼らはひとつひとつの手札を扱うとき、興奮を無表情で隠した。すべてのプレーは目の奥で行われていた。ナイーブな期待と計算された欺き。ひとりひとりが他の者たちを陥れようとし、同時に自分の危ない夢に限度を定めようとする。債権のトレーダーと弁護士、そしてもうひとり弁護士。ポーカーというのは集約されたエッセンスなのだ―彼らが昼間にめぐらせている戦略の本質をはっきりとした形で抽出したもの。カードは丸テーブルの緑のベーズ地の上を飛び交った。彼らは直感と冷戦期のような危機分析を用いた。狡猾さと闇雲な運任せの両方を使った。予見的な瞬間が来るのを待った。自分たちが来ると予感したカードに基づいて賭けをする瞬間を。「クイーンが来ると感じたらその通りに来た」。彼らはチップを投げ入れ、テーブルの向こうの目を見つめた。文字発明以前の習俗の世界に退化し、死者に祈った。そこに健康的なチャレンジ精神とあからさまな嘲りとがあった。相手の薄っぺらな男らしさをズタズタにしてやろうという意図が含まれていた。

ホヴァニスは―死んでしまったが―ある時点で七札スタッドポーカーをやめようと言い出した。カードと賭け率と選択肢の数そのものが過剰に思われるという理由だった。他の者たちは笑ったが、結局それが規則になった。親の選択肢は五札ドローポーカーと五札スタッドポーカーの二つに減った。

それに呼応して賭け金が上がった。

それから誰かが食べ物の問題を持ち出した。これはジョークだった。キッチンのカウンターには、ちょっとした食べ物が大皿に盛られていた。それについてディミートリアスが、そんなことで我々の規律が保てるだろうかと言い出した。テーブルを離れ、時間をかけて口に食べ物を詰め込む―しかも化学薬品を加えられたパンや肉やチーズなどを―そんなことでいいのか、と。これはジョークだったのだが、みな真剣に受け止めた。そしてテーブルを離れることは膀胱の要請による緊急事態のときか、一プレーヤーに不運が続いた場合のみ許されることとなった。そういうプレーヤーは窓辺に行き、夜の深い潮の流れを眺めずにいられなくなるのだ。

ということで、食べ物は禁止された。食べ物はなし。彼らはカードを配り、コールし、ゲームを降りた。それから酒の話を始めた。バカげていることはわかっていたが、二、三人の連中がこんなことを言い始めた。酒の摂取は茶色っぽいものに限るほうが望ましいのではないか、と。スコッチ、バーボン、ブランデーなど、男らしい色合いと深い情熱を孕んだ蒸留酒。ジン、ウォッカ、生気のないリキュールなどはダメ。

彼らはこれを楽しんでいた、彼らのほとんどは。意図的に些細なことにこだわり、そこから型を作り出すのが好きだった。しかし、テリー・チェンは違った。彼は実に華麗なポーカーをする男で、ときには二十四時間連続オンラインでプレーすることもあった。テリー・チェンは、みんな浮ついた生活を送っている軽薄な人間だと言った。

それから誰かが、五札ドローポーカーは七札スタッドポーカー以上に自由だと指摘し、みんなどうしてこれにもっと早く気づかなかったのだろうと思った。プレーヤーは三枚までカードを捨てて引くか、持ち札をまったく換えないか、降りるかの選択ができるのだ。そこで彼らは五札スタッドポーカーだけに限定することに同意した。こうして賭けられた多額の金、積み上げられた明るい色のチップ、はったりとそれに対抗するはったり、わざとらしい罵りと不気味な凝視、低いグラスに注がれた暗褐色の酒、何層にも重なる葉巻の煙、無言ながら重い自責の念―このように乱れ飛ぶエネルギーと身振りが向けられているのはひとつの対抗勢力、制約を自ら課したという事実。それは自己の内部からの命令であるだけにいっそう強力なものとなる。

食べ物はなし。食べ物は禁止。ジンもウォッカも禁止。黒ビール以外のビールもダメ。彼らは黒ビール以外を禁止する命令を発したが、さらにベックス・ダーク以外の黒ビールを禁止する命令も出した。その理由は、キースがドイツのケルンにある墓地の話を聞き、それを彼らに話したからだった。四、五十年ずっとカードを続けてきた四人の親友が、彼らがカードテーブルに座っていたのと同じ配置で埋葬された。カードをしていたときとまったく同じように、二つの墓石がもう二つの墓石に面して。プレーヤーひとりひとりを由緒ある位置に埋葬したのである。

彼らはこの物語を愛した。これは友情に関する美しい物語。取るに足らない習慣が超越的な影響力を持ちうることを示している。彼らは敬虔な気持ちになり、物思いに沈んだ。そして考えついたひとつのことは、ベックス・ダークを唯一の黒ビールと指定することだった。このビールはドイツ製であり、物語のカードプレーヤーたちもドイツ人なのだから。

スポーツに関する話を禁止しようと言い出した者がいた。彼らはスポーツ、テレビ、映画に関する話を禁止した。キースは、ここまで来るとバカげていると思った。しかし、規則というのは良いものだと彼らは答えた。バカげているほど良いのだ。おならの巨匠ラムジーは、今では故人だが、ありとあらゆる禁止令を無効にしようとした。タバコは禁じられていなかった。タバコを吸うのはひとりしかいなくて、彼はもうどうしようもないという哀れな姿を見せれば、好きなだけ吸うことを許されていた。ほかのほとんどの男たちは葉巻を吸い、ゆったりと、スケールが大きくなったような気分でいた。スコッチかバーボンをすすりながら、禁止された言葉の同義語を探した。「酔っ払った」や「しらふ」などと同じ意味の言葉を。

きみたちは不真面目だ、とテリー・チェンは言った。真面目になるか、死ぬか、どちらかにしろ。

親は緑のベーズ地のテーブルでカードを切ると、必ずゲームの名前を宣言した。五札スタッドポーカー。それが唯一のゲームになってからも、同じことを続けていた。この宣言のささやかな皮肉は時とともに干からびていき、言葉は誇り高き儀式となった。形式的で必要不可欠なものに。親になると、それぞれが順番に五札スタッドポーカーと宣言する。彼らは内心嬉々としてそれをやった―無表情に。この種の心地よい伝統に出会えることなど、ほかにないではないか?古めかしい無意味な言葉をいくつか発することで表されるような伝統に?

彼らは安全なプレーをしてあとで後悔した。危険な賭けをして負け、陰鬱に悩んだ。しかし、いつでも禁止令を発することはできたし、規則を作ることもできた。

そしてある夜、すべてが崩壊した。誰かが腹を空かし、食べ物を要求したのだ。ほかの誰かもテーブルを叩き、「食い物、食い物」と言った。これが祈禱のようになり、部屋中に広がった。彼らは食物禁止令を撤回し、ポーランドのウォッカを要求した―何人かは。フリーザーで冷やした透明な蒸留酒が、凍ったタンブラーに注がれ、差し出されることを。ほかの禁止令も廃止され、禁止された言葉も復権した。彼らは賭け、賭け金をせり上げ、飲み食いした。そしてその時点から、他のゲームも再開されたハイロー、エーシーデューシー、シカゴ、オマハ、テキサス・ホールデム、アナコンダ、そのほかポーカーの先祖のなかでも傍系に属するものなど。しかし、彼らは親になるたびに、例のゲームの名を宣言できないことを残念に思った。五札スタッドポーカー―そう言って、他のゲームすべてを除外すること。彼らは、他の四人が互いについてどう思うのかを考えないようにした。ポーカーという野生人の悦楽に浸る男たち。ケルンの墓地で向き合っている墓石と墓石。

 

『墜ちてゆく男』

私は別の時間帯に戻ってしまったに違いない

マーティンは絵画の前に立っていた。

「私はこうしたオブジェを見ているんだ、キッチン用品なのにキッチンから引き離されたオブジェ。キッチンから、家から、あらゆる実用的で機能的なものから自由になったオブジェ。私は別の時間帯に戻ってしまったに違いない。長いフライトのために、普段以上に混乱しているのだろう」と彼は言って、しばらく黙り込んだ。「というのも、この静物画にどうしてもタワーを見てしまうんだ」

リアンは彼のいる壁際まで歩いて行った。問題の絵には七つか八つのオブジェが描かれていた。背の高いオブジェは筆遣いの荒い背景の前に描かれている。ほかのオブジェは箱やビスケットの缶で、暗めの背景の前に積み重ねられていた。その列全体が、不安定な遠近法と抑え気味の色によって、奇妙にも慎ましい力を帯びていた。

彼らは一緒に絵を見つめた。

背の高いオブジェのうち二つは暗く陰気だった。煙のような痕跡と汚れがあった。そして首の長いボトルがオブジェの一つを部分的に隠していた。そのボトルは白いボトルだった。暗めのオブジェ二つはぼやけていて、それが何か言葉で表現できかねるものだった。それこそ、マーティンが話していたものだった。

「ここに何を見る?」と彼は言った。

彼女は彼が見ているのと同じものを見た。タワーを見たのだ。

 

『墜ちてゆく男』

いまだかつて生きたことすらなかった

そのころ文江はどこかを歩いていた。あてどもなく歩いていた。言い知れぬ不安が彼女の心を締めつけていた。今自分がどこにいるのか、急にわからなくなってからもう何時間が過ぎただろうか。新宿周辺、と思った次の瞬間、足立区の工場地帯―それは彼女が通った中学校がある場所だった―が頭に浮かび、東京、と思ったとたん富山県の片田舎―数回訪れたことのある高部の実家近くの道―の映像が脳裏に広がった。そういうことを何度か繰り返し、いくつかの街角を曲がっているうちに、文江の頭から次第に場所という観念が薄らいでいった。

その時はそれは別に恐ろしいものではなかった。ちょっとしたど忘れは誰にでもあり、うっとうしくはあったが特に気にするほどのことではないと思った。そのまま彼女はかなりの時間歩きつづけた。そして、急に気づいたのである。「私はいったいどこに向かって歩こうとしていたのだろうか」という根本的な問題に。それが昔通った中学校や夫の実家の方角ではないと確実に言い切れるものが、文江の心の中のどこを探しても見当たらなかった。

文江はあらためて自分の手に握られている物を見た。それはコンビニエンス・ストアの袋だった。私はコンビニに行ったのだ。そして今―自分のマンションに帰ろうとしている。かろうじてそれに気づいたが、そのことは文江にとって二重の恐怖を意味していた。「私は家に帰ろうとしていたことを忘れていた」という自分自身に対する驚きと、「その家がどこなのかわからない」というさらなる衝撃である。しかし文江がとりわけ恐れたのは、このまま立ち止まってしまうことだった。事態は歩き続けることによってしか解決されないばかりか、なぜかはわからないが文江は「立ち止まったら死ぬ」という思いに取りつかれていた。

それからさらに数時間彼女は歩き続けた。そしてどこかで見たような公園にもう五回も行き着き、とうとうその五回目に疲労困憊に達した。もはや一歩も歩けなかった。彼女はついに「死」を覚悟した。そして立ち止まった。この時もし彼女が時計を見たならば、針は午前一時あたりを差していただろう。近所のコンビニに行くために家を出てから四時間が経過していた。

立ち止まった彼女はもう何もかも放棄して、ただ待った。死が訪れるのと恐怖が過ぎ去るのを。しかし、予想に反して死がやってくる気配はなく、また恐怖が消えてゆく兆候もなかった。彼女はとうに「この場所はどこか」と考えることをやめており、その現実感を欠いた目線でぼんやりと、黒いうっそうとした樹木や銀色の滑り台を見つめた。そして次のような思考が渦を巻いた。

「この樹木や滑り台は果たして本当に世界の一部なのだろうか」「私がどうして今まで世界というものの存在を信じて疑わなかったのかがわからない」「世界はひょっとしたらないのかもしれない」「そうだ、ずっと前からわかっていたのだ。世界はやはり、ない」「それでも世界があると定義するなら、そんな世界にとっては私自身こそがない。ゆえに、今まさに私は死につつあるのかもしれない。いや、真実はこうだ。私はとうに死んでいる、いまだかつて生きたことすらなかった」

 

『CURE[キュア]』