犬のクソ

死ぬほど暑いぜ 砂埃が犬のクソみたいに臭え
クソは好物だろ?
バカ言うなって
突入!
男が1人部隊を見ながら携帯で話してます
動きを報告してるようならお前の判断で撃て
女に電話してるだけかも
建物内へ 女と子供が出てきた 距離200 部隊に近づいてる 何か隠し持ってます 対戦車手榴弾だ 子供に渡した
女と子供?
見えますか?
見えない 判断は任せる
もし違ってたら軍刑務所行きだ

人間には3種類ある “羊 狼 番犬”だ “悪など存在しない”と思う連中は悪が訪れた時己の身を守れない 彼らは“羊”だ そして捕食者は弱者を暴力で餌食にする 彼らは“狼”だ
やり返せ!
そして群れを守るため圧倒的な力を駆使する者 狼と戦う類まれなもの 彼らは“番犬”だ 父さんは“羊”など育てない “狼”は厳しく罰する だが家族は守る 弟が誰かに襲われいじめられたらやっつける許可を与える
ジェフをいじめた奴が
本当か?
はい そうです
やっつけたか? なら分かるな お前は“番犬”だ

特別番組です タンザニアとケニアでの米国大使館爆破事件は明らかに米国に対する戦争行為です 同時刻の爆発で80人以上が死亡 1700人以上が…
おい ジェフ 見ろ
我々の“敵”が何者か 現時点では不明です 大使館を狙い…
何てことを
犠牲者のうち米国人は子供1人を含む8人が死亡 まだ5人が行方不明です
“新兵募集所”
テキサス出身? 愛国者か? 奴らに激怒か?
力になりたい
戦うのは好きか? そうか ならエリート戦士になれ
“シールズ”?
“海 空 陸”だ
水は苦手です
臆病者には向かない 多くが辞める
俺は辞めたりしません

遊びは終わりだ! ここからが本番だぞ! お譲ちゃん 痛いのは最初だけだ 貴様辞めるか?
いいえ 指導官
女の腐った野郎! 顔をそむけず水を受けてみろ!
はい 指導官!
ジジイめ! “ノアの方舟”の生き残りか 何歳だ?
30歳です
30? こいつらの親父かよ 腰抜けは間引くぞ 本物の戦士だけを選ぶ コネティカット出身か? そんな田舎者知るか
指導官 俺はテロリストを殺したいです
誰がニヤつけと言った?
誰もです
誰が喋れと?
誰もです
情けない白ブタ野郎! ジャンクフード食らいのどアホのデブめ お前のことだぞ ジャンク・デブ 降参するならあのベルを鳴らせ ここで何やってる? 黒人は泳げないくせに
黒人じゃないです 新黒人です 走りもジャンプも苦手 泳ぎは得意 白人女とヤると女の親が喜びます!
落伍者だ 逃げ出したぞ 消えて何よりだ 奴は戦場からも逃げる お前らが撃たれても助けちゃくれない 欲しいのは戦士だ! 数えろ! 聞こえない!
9回!
ママを呼んで代わってもらうか? こんなの前戯だ! お前らのケツに1発ぶち込むぞ! 覚悟しておけ リスちゃん “木の実(タマ)”はどこだ?
寒くて引っ込んじまいました 奥は暖かい
チビがデカい口を! おい お前 お前はどうだ? どんな気分だ?
危険に立ち向かいたいです
カイルは危険が好きだと 行け! 座れ! 水温13度 実に気持ちがいい もう少しで“シールズ”になれるぞ
銃とナイフは俺の命
そいつで敵をぶっ殺せ
そいつで敵をぶっ殺せ

姉が“シール”と婚約してたの
してた? シールたちをどう思う?
横柄 自己中心的 浮気性 好き勝手をする連中よ 彼氏にしたくない
俺は国に命を捧げるつもりだ
なぜ?
地上最高の祖国は俺が守る 俺は姉さんの彼氏と違う それじゃあ
どこへ?
帰る 彼氏にしたくないんだろ?
結婚はイヤって意味よ
そうか それじゃやり直しだ 名前は?
タヤよ
タヤ クリス・カイルだ よろしく
あなたが祖国を守るなんて傲慢じゃない?
訓練の時教官が言った3つが…
身を滅ぼす3つは“傲慢さ 酒 女”だ
その2つが攻撃中よ

呼吸が大事だ 呼吸を制し心を制する 意識せずに引き金が引ける 自分に命じずに済む 呼吸や鼓動の“狭間”をつかむことで精確に撃てる 狙いは小さく 外してもどこかに当たる 大きく狙うとズレも大きい もっと狙いを小さく
はい
同じ的か? お前は地面を撃ってる 撃てない奴は衛生班に配置する
クソッ
左目を閉じたか?
それでは前が見えません
的があるだけだ
いいえ 何かいます
証明しろ 何もいない 腕立て伏せ50回だ
生きた的は得意です

第1回派遣
ファルージャにようこそ 中東の“西部”だ アルカイダどもが米兵に賞金をかけた 我々は狙われている 狙撃手は海兵隊員1名を護衛に海兵隊の部隊による建物制圧を監視する 何があろうと彼らを守れ 一般市民は避難した 町に残る男は全員我々の敵と思え 海兵隊を守り我々も無事帰還しよう 降りろ!
頭を低くしてろテキサス 奴らにも狙撃手が
頭は狙うまい
450メートル先から頭を撃ち抜く奴がいる ムスタファって名だ 元五輪選手 五輪に“狙撃”の種目が? 女と子供が出てきた 距離200 部隊に近づいてる 何か隠し持ってます 対戦車手榴弾だ 子供に渡した
女と子供?
見えますか?
見えない 判断は任せる
もし違ってたら軍刑務所行きだ すげえ腕だな くそアマめ!
見事だ 完璧な判断だ よくやった
すげえ!
俺に触るな

マークに聞いた “初体験”で見事な腕だったと そうなのか?
陰毛も生えてないような少年だ 母親が手榴弾を渡し兵士を殺させようとした あまりに残酷すぎる
だがその子供が海兵隊員10人を殺したかも
俺が射殺した
すべきことをしたんだ
まさか最初がこんなだとは…

小便臭いな
仕方がない
恩人だよ 大したもんだ
即死だろ?
そうとも
敵の狙撃手は手ごわいぞ
保安チームに警告した
警戒させろ 周囲400メートルは危険だ 報告を書く
何人殺した?
6人… いや8人だが2人は敵が運び去った
6人?
何か問題か?
ずば抜けて多い
だが1人やられた
お前のせいじゃない

“コーランを持ってた”と
コーランは知らないが奴が持ってたのは7.62mm弾を撃つAK47に似た金属の物体だ 何だと思う?

クリスだ みんな 俺たちの“伝説”が来た! 伝説を拍手で迎えよう お前のことを誇りに思うぜ この伝説の男はなんと1発で100人殺せるそうだ 違ったか 1人に1発? 1人にイッパツだよな 100人ヤった 独り身だししゃぶって… やめろって 食い物を投げてケンカか?
お前を黙らせるためさ

海兵隊がやみくもに突入すれば撃たれるぞ
俺たちのような訓練を受けてないしな
指導してやろう 俺が捜索の先頭に
ダメだ お前は監視だ
だがマーク…
捜索は命がけの任務だぞ 救済者のつもりか?
俺は敵を撃ちたいだけだ
お前の存在が彼らを“無敵”にする
違う
そう信じれば無敵だ お前は撃て ザルカウィ捜索は“犬”に任せろ

チクショー 俺も海兵隊と行動する 来るか?
行くわけがない 自分の命が大事だ 生きて帰りたい 突入は俺の任務じゃない あんなマネはごめんだね
俺と来る気がないなら二度と姿を現すな

すばらしいわ 鼻を触ってる ご気分は?
早く生まれてほしい
もうすぐです
だといいわ
ご主人のお気持ちは?
いいです
リラックスするのは難しい?
いいえ 別に
帰国後外出は初めて
家に戻れてうれしい
これを腕に巻いて下さい
調べるならヒザを
タバコは?
全然…
お酒は?
のどが渇けば
170/110です
やだ クリス
高い?
静かに座っているのにその数値は…
測定に感謝します あとは俺が対処します
あなたが対処?
ハメたな
ろくに喋らず元気なフリ
すべて順調だ
順調じゃないわ 血圧が170/110なのよ
俺は普通に運転してる いい天気で暖かい 戦争で人が死んでるのに誰もそれを話さない みんな自分のことしか考えてない 報道もしない 戦争なのにショッピングセンターへ 俺は場違いだ

泣いたらあやす約束よ そのビデオは私も観たわ イラク女のセクシー・ビデオかと
狙撃手ムスタファが米兵殺害を録画し売ってる
あの電話の時もその男? そうなの? 話して 黙っていたら安心できない
知らなくていい
想像はつらい
奴らは野蛮なんだ 蛮人どもだ
彼らじゃない 私たちの問題よ
つまり?
心も戻ってきてほしい 分かった?

第2回派遣
おかえり 中佐が待ってるぞ
戻れてうれしい
だろうな
待っててくれるか?
早くしろよ
おい歩兵!
クリス?
ジェフ
無事か? ケガは?
敵を大勢殺したってみんなの噂だ
俺のことか? 元気なのか? 会えてうれしい
兄貴は僕のヒーローだ 昔からずっと
急げ! 中佐が待ってる
伝説だってね
大丈夫か?
乗り遅れる
何があった?
もう疲れた 僕は故郷に帰る
自慢の弟だ 父さんもそう思ってる
クソ食らえ
何だって?
こんな所クソだ

第3回派遣
胸ポケットの聖書は弾よけか?
胸の?
開いてるのを見たことがない
“神 国家 家族”だろ?
神を信じるか?
なぜ妙な質問する?
ガキの頃 電気柵につかまってみんなで競争をした 戦争はあの感覚だ 強い電流にシビれ信じる心をなくした
マーク 休みが必要か?
俺たちは正しいのか…
邪悪な奴らを見ただろ?
悪はどこにでも
米国が攻撃されてもいいのか? 俺たちは祖国を守ってるんだ
そうだな 奴を殺そう

私は一人で思い出を作ってる 分かち合えない
これから先時間があるさ
先っていつから? 帰ってきても心は戻らない 目の前のあなたの存在は感じるでも心はよそに シールズが憎いわ とても 私の夫子供たちの父親なのにあなたを奪うから
彼らは待てないが俺たちは待てる
戦争で影響を受けない人はいない いつか心を蝕まれる 本当よ

銃弾はどこから?
1000メートル以上先だ
撃てる奴は1人しかいない
助かるのか?
弾が銃に当たり跳ねて顔へ 楽観できません
“シール”被弾は1人目
チクショー!
情報では7つ先の建物に拠点が
海兵隊もまだ現場に
休みたいなら構わん 諸君次第だ
報復の掟 “目には目を”
やっつけよう
よし
いいとも
出発だ

“ある者は名誉を望み追い求めある者は思わぬことでそれを手に入れる 名誉とは高潔なる行為に与えられるもの 僕は問う いつ名誉は色あせて誤った道へ進むのか なぜ名誉を追うあまり人は心を疲弊させるのか 僕が… 見たのは戦争とそして… 死だ”
マークは2週間前あの手紙を あなたに話した? あの手紙をどう思ったの?
敵の拠点の情報が入った ビグルスが撃たれた直後で皆感情的に行動し不意打ちにあった でもそれが原因じゃない あの手紙のせいで死んだ 戦う意欲をなくし高いツケを払ったんだ

ビグルス
クリスか? どこだ
ここだよ 全然見えないのか
最悪だよな 顔を整形するらしい
何よりだ 不細工だしな
冗談はまだ早い
早いか?
早すぎる
プロポーズしたって? よかったな 指輪は“ゼールス”で買ったと言ったんだろ? 違うのか?
新しく買ったんだ 彼女の父親に頼んで
それはよかったな
彼女“別れない”って 俺は“別れろ”と言ったんだ つらい人生が待つから
なぜそう言う? 彼女にはお前がいる ナニは小さいが
そうかい 失明したのが俺でよかった お前には耐えられまい
そうだな “米軍史上最強の狙撃手”だってな
俺が?
そう聞いたぜ
奴らサドルシティに移った
戻るな
奴らを追いつめる
俺の復讐はよせ
必ずやる お前は兄弟同然だ この敵は討ってやる
そうか “伝説” 頼んだぜ

俺に何かあってもお前は大丈夫だ 再婚していいぞ
死にたいの? だから行くの?
違う
じゃ理由を話して なぜまたイラクへ? 知りたいの
お前たちを守るためだ
違う
そうだ
家族はここよ でも子供たちに父親はいない
国のために戦う
くだらない!
ちっとも
引き際をわきまえて もう十分尽くしたのよ 他の人を行かせて
他の人を? それは卑怯だ
納得すべきよ 何としてでも お願い ここにいてほしい お願いよ そばにいて もしまた行くなら… 戻った時私たちはいない
おいで

第4回派遣
クリス 3夜連続攻撃を受けた ファルージャやラマディよりサドルシティは地獄だ チームの残りは?
リスは除隊 ドーバーは妻の妊娠で故郷に残った 俺も次回来れば女房に殺される 参っちまう
そうだな
ビグルスは気の毒に
出発前に会ったが全盲だよ
あいつは死んだ 昨日手術の最中に死んだそうだ

クリス 私よ 飛行機に乗ったと伝言が
そう 早く出国できた
ほんと? 今どこなの? ドイツ?
いや もう着いた 米国内だよ
戻ったの? 何してるの?
少し時間が必要で…
子供たちが会いたがってる 9ヵ月もいなかったのよ
これから帰るよ
大丈夫?
何ともない
帰ってきてね 早く会いたいわ
分かった

奥さんが心配して電話してきた バーベキューでのこと
犬を殴ろうと…
暴力的な反応だ 不安を覚えます?
いいえ
今回のことが繰り返される不安は?
不安は感じません
幾つか質問します 戦地で過ごした期間は?
4回派遣されたので…
1000日くらい?
そうですね
海軍が認めているがあなたはなんと160人以上射殺したとか もしかして 経験しなければよかったと思ったことは?
そんな人間じゃない
つまり?
俺は蛮人どもから仲間を守っただけ なぜ奴らを殺したか神に説明できる 俺が悔やむのは救えなかった連中のことです また戦地へ行きたいが今はもう軍を辞めた
もっと救いたかったか?
はい
この病院にも大勢いるぞ 助けを求める兵士が 会ってみるか?
ぜひ
そうか では案内しよう

外した 3インチ右 ウィン お前なら撃てる
これを右へ 両目を開けてろ ひるまずに撃て 的はただの紙だ
“伝説” 黙っててくれ
じゃ当てろ
やった!
命中だぜ タマにズシンと響くぜ なぜ俺たちと過ごす? 家族がいるのに
ブーツを集めてたとか それをもらおうかと
本気で聞いてる なぜなんだ
助け合わないと 2発連続で当てろ
お前なら簡単だ 命中! 命中!
すごいな
伝説はどっちだ?
イヤな肩書きだ 本当だよ

やあ 調子は? 2時間ほどだな 銃を撃って話でもしよう いこう
クリス・カイルはその日力になろうとした元兵士に殺された

『アメリカン・スナイパー』

儀式

伝っておくれ 坊や 昔々… 遥か昔 正教の修道院に老僧が住んでいた 名はパムヴェといった 彼は山に枯れかかった木を植えた こんな木だ そして若い僧にパムヴェは言った その名はイオハン・コロフだ “この木が生き返るまで毎朝水をやりなさい” さてと砂利石をおくれ… それからイオハンは毎朝手桶いっぱいの水を持って僧院を出て山を登り木の根元に水をそそぎ僧院に戻ってくるのは夕暮れ時だった まる3年それを続け晴れた日に山頂に登るとその木に花が満開になっていたのだ この話の教訓は決まり事や手順の大切さだ いいか 父さんも思うんだ 毎日欠かさず正確に同じ時刻に同じことをきちんと儀式のように規則正しく手順を守って行っていればなにかが変わるだろう それ以外に方法はないだろう お前にもできる 目が覚めても床を離れるのを必ず7時ちょうどに決め浴室に行き洗面台でコップに水をそそぎトイレに流すだけでもいい 美しいだろ 日本の生け花のようだ…

おや 何を呻いているんだ? “初めにことばがあった”と言うがお前は黙っているしかない 魚のように 息子よ 我々は道に迷っている 人類は道を誤りひどい危機にある 重くなったな 人間が最初に恐れを知るのは…
最近彼はどうだね
変わりないわ 仕事をしてるわ
あの独白は好きじゃない アレクサンデル!
おや ドクター いま行く しゃれた服装をしてるな それだと歩くのは大変だぞ よく来てくれた
誕生日おめでとう さて“青年” 具合はどうだ? 話せないのはつらくて不安だろうがいい経験だ 意思疎通の訓練になる
私の坊やよ
“私たちの”だろ
うがいをしておとなしく寝ているわ
うがいどころではない 手術中とても我慢強かった それで“青年”に成長したんだよな さあ 大きく口を開けて 順調だ 1週間で話せるだろう それはそうとガンジーは何年も週に1度無言の日を設けていた 規則正しくな 人にうんざりしたんだろう

人間は自分を守ってばかり 周りの人や自然を受け入れない 自然を踏みにじってきた いまの文明の根底にあるのは力と権力 怖れと征服欲だ 技術の進歩と呼ばれるものは画一的で物質的な安楽しか生み出さない そして権力を守る武器だ まるで未開人だ 顕微鏡を棍棒のように使う いや 未開人の方が精神的に豊かだった なにか大切な発見をしても今では破壊の道具に使う “罪とは人生に必要ないものすべてだ” 真の賢人がそう言った 慰めを求めるな 文明は罪の上に築かれたのだ 物質と精神のおぞましい不一致不均衡に我々はたどり着いたのだ この貧しい文化は文明は病んでいるんだ 息子よ 問題を究明し解決しなくてはならない まだ手遅れでないなら 間に合うなら 独り言ばかりの日々だ “言葉 言葉 言葉!” やっとハムレットが分かった 彼も堪えられなかったんだ ではなぜ私は語るのか? 語るのをやめればなにかを成し得るのか? ともあれ試みるのだ 息子よ 私の息子よ… 神よ 何が私に…

あなたのムイシュキン侯爵は絶品だったわ あれで有名になったのにその後あなたは役者をやめてしまった 芝居も何もかも 「リチャード3世」の後よ いまもなぜか分からないわ
“何もかも”? 私がやめた “何もかも”とは何だ?
芝居とすべてよ!
つまり成功のことだな 芝居は“何もかも”ではない 私には堪えられなかった
それはなぜだ?
恥をおぼえた 舞台に立つためにウソをついていた 理解できていない役柄を知った振りをして舞台に立ち演じることは不誠実だよ 堪えがたかった 批評家にも見抜かれていた その不誠実をね
役者は自我も己の気質も捨てろと言うのか 自分を否定しろと?
大げさだな 私は己を役に溶かし込み演じてきた それが嫌だった 役に己を溶かし込む… その感覚は不快だったし卑劣で女性的で衝動的だった
“女性的”なことは罪なの? 私はあなたが俳優の頃幸せだった だからやめたのよね
そうかもな
そうでしょ
だから何だ?
またこれよ もうたくさんよ

こんばんわ お誕生日おめでとう お祝いのしるしにお持ちしました
ありがとう 何ですか?
独りで運べません ヨーロッパの地図です 17世紀末のものです
本物なの?
まさか 写しだよ 複製
とんでもない 本物です オリジナルです
まあ 素敵 中に運び込まないと
だが高価すぎる贈り物ですよ
神の愛には劣ります
しかし高価すぎます オットーさん 我が身を犠牲にせねば…
もちろん犠牲にしてますとも 犠牲なくして何の贈り物でしょう? それでこそ贈り物です

やあ マリア
すべて済ませました 失礼してよいですか?
もちろんよ ありがとう 待って お皿を温めてくれない? 後はユリアがするわ
はい アデライデ奥様 お皿を温めます お皿をすぐに温めます それから失礼します ほかには?
いいえ お帰り ユリアが残るから ああ もうひとつ ロウソクを立てた? 食卓に出して ワインの栓は抜いた? では抜いて それでお帰り
お皿 ロウソク ワイン
マリアは私の隣人です よい友人です
そうかい おめでとう
アイスランド出身で数年前に来ました
変わり者だ
誰が?
マリアだよ そう マリアだ
ときどき怖くなるわ
世界がこのようだったら素晴らしいのに ヨーロッパが火星みたいだ まったく真理から遠い
ごもっとも でも人々は暮らしていました 幸せにです 今日は何日でしょう? 1392年?
これを奥に入れよう 手伝ってください 現代の地図にこの真理はない
どんな真理です? 真理に取り憑かれてますね
真理など存在しません
私たちの目は何も見ていません たとえばアブラムシです…
アブラムシ?
アブラムシは皿の中を回りながらまっすぐ進んでると考えています
アブラムシは考えているのですか 儀式のようなものでは? アブラムシのね
おそらくそうでしょう そうでしょう そうでしょう でなければ“自分たちの真理”にとどまるしかありません

ああ はい ある意味で私は蒐集家です
“ある意味で”?
なぜそんな言い方を?
どう言えばいいでしょう 出来事を蒐集しています 説明が付かない現実です それが現実だと明らかにするには大変時間がかかります たくさん旅をするので出費も だから配達の仕事をしています
説明できない現実? 坊やが喜ぶわ こんな話大好きなの
おやまあ そうですか
よく分からないな はっきりしない
では例を話します どれがいいかな… これにしましょう 戦前 ケーニヒスベルクに寡婦が息子と住んでいました 戦争になり息子が召集されました 18才でした 思い出に写真館で写真を撮ってもらいました 母と息子が一緒に撮った写真です そして息子は… 出征しましたが前線に送られ数日後に殺されました
ああ… そんな…
不幸な報せを受け気が動転してもちろん母は写真のことを忘れました
“もちろん”ですって? 忘れるはずがないわ
そこは重要じゃない
いかにも重要ではありません 母親は写真を受け取ることすら忘れてました 戦後に彼女は思い出がつらくてよその町に移りました
ありえないわ 写真を探さないなんて 最後の写真でしょ
話の腰を折るなよ 失礼した
いいわよ いいわよ 黙ります
失礼しました それでは続けます 1960年のある日 母親は別の写真館で友達に送る顔写真を撮ってもらいました そしてできあがった写真を見ると別の人物が写っていました 出征前の息子です 母親は戦後の老いた姿なのに息子は出征前18歳の顔立ちのままでした
本当の話? 間違いないの?
ええ 本当です
証拠はあるのかね?
その母親と話をして写真をもらいました 母親は1960年の顔立ちで息子は1940年の軍服姿です
何ということ!
ええ 私はコピーですが彼の出生証明書を持ってます 死亡通知書も持っています
煙に巻くつもりか?
とんでもない 似たような事例を300件集めました 正確にはおそらく284件です 私たちは目を開けててもなにも見ていないのです 何の騒ぎなんだか…
ご気分が悪いの?
何でもありません 悪い天使が通りすぎて翼がぶつかりました
悪ふざけですか 配達人殿?
悪ふざけなどしていませんよ まじめな話ですよ

何なんだ?
お騒がせします お休みでしたか?
教えてくれ 何が起こった?
まだひとつ 最後の機会があります
ひとつの機会? どんな機会だ?
希望の機会です
でもどんな希望? 何を仰りたい?
申せませんがマリアが知っています
マリア? どこのマリアが?
彼女を説き伏せに行かねばなりません
でもどこへ行く? 誰を説き伏せるんだ? お入りを 飲んで落ち着いて 日差しがない 私はどのくらい眠ったのか?
そんな飲み方してはいけませんよ 上等のコニャックなのに
みんなはどこだ? 寝たのですか?
階下ですよ 食卓です 愛しています あなたを
食卓に?
マリアの家にすぐ行ってください
でもマリアって誰だ? 詳しく聞かせてください
ご存じのマリアです お宅の家政婦ですよ 説明は後でいたします まず話を聞いてください
聞いてますとも でもそれでどうなるんです?
彼女は湖の向こう岸の農家に住んでいます さびれてしまった教会の隣です
誰が?
“誰が?” 人ではなく教会の話ですよ
誰が住んでいるんですか? 教会はどうでもいいですから
誰が住んでいるか? マリアですよ もう半時間も説明してますよ
もう少しきちんと聞いてください
“きちんと”ね でも何をです? 住まいは妻から教わってます
それならきっと…
はいはい 失礼した 本当に申し訳ない お隣に座りましょう 家政婦がどうだと?
そうです あの家政婦は… 聞こえますか?
何が?
あれは何です?
分かりません 分かりません 音楽のようですね
とにかくマリアの家に行くんです
でもなぜ?すべてを止めたいのでしょ?
止める? 何を?
すべてです “すべて”ですよね
オットーさん
それで済むんです マリアの家に行って彼女と寝るのです
何ですと?
マリアと寝なければなりません
私がマリアと?
彼女は独り暮らしですから簡単です 会ったら全力で止めになることだけ願うんです それですべてが止めになります 何も起こらなくなります
血迷ったんですか? まったく オットーさんは
笑わずに理解してください 本当なのです 特別な力の持ち主です 信じてください 証拠もあります 魔女です
どんな魔女?
善い魔女です
バカにしなさんなよ ニーチェにかぶれてますな
他に解決策はありません 別の選択肢があります? 唯一の方法です
“別の選択肢”? “別の選択肢”? 何の話です?
もう行かねば 自転車を置いてきました ガレージの入り口にあります 車はいけません 自転車で行きなさい ハシゴをかけておきました マリアの家に でもご用心を 前輪のスポークが2本折れてましてね 前にズボンが引っかかりました 水に転げ落ちました どちらの足?
右です ご注意を 私の話分かりましたね 大丈夫ですか?

“初めにことばがあった” でもなぜなの パパ?

『サクリファイス』

呪われた永遠の囚人

着きました 私の住まいです
静かですね
世界一静かですよ そのうち分かりますよ 美しくて誰もいない場所です
私たちがいる
3人では何も変わりませんよ
変えられるとも
おかしいな 花の香りがしない どうですか 匂いますか?
沼の匂いしかしない
向こうに川があるんです ここに花壇もありましたがジカブラスが踏み荒らしました でも花の香りは何年も残ってたんですがね
なぜ踏み荒らした?
分かりません 理由は教えてくれませんでした “いずれ分かる”と言って ゾーンを憎んでいたようです
ジカブラスの性は何というので?
あだ名ですよ “ヤマアラシ”という意味で ゾーンをよく知っていました 私の師です いろいろ教わりました あの頃皆から“先生”と呼ばれていました その後ある事件が起き彼はいかれてしまいました 罰を受けたように ナットに包帯を結びつけてください 私はちょっと歩いてきます 必要なので ここを動かないでください
どこへ行くつもりで?
独りになりたいのでしょう
なぜ? 3人でも不安だというのに?
ゾーンにあいさつするのです
どうして?
ストーカーはゾーンを知りつくしています
想像と違いました 蛇の彫り物をした荒くれだと思っていました
つらい人生を歩んでいます 何度も投獄されて苦しみ生まれた娘は“ミュータント” 気の毒にも脚がないとか
ジカブラスという男は? “罰を受けた”とは? ご存じですか?
ジカブラスはあるときゾーンから戻るや否や金持ちになりました 大富豪にね
それが罰ですか?
1週間後首を吊りました
どうして?
静かに
何でしょう
20年ほど前ここに隕石が落ちたらしく村が焼かれました 隕石を探してももちろん結果は分かりません
なぜ“もちろん”と?
ここに来た人は誰も戻ってこなかったからです そこで考えられたのは隕石の落下ではないという可能性です 当座しのぎで鉄条網を張りめぐらし立ち入り禁止としました すると噂が立ちました “ゾーンに行けば願い事がかなう”とね そこで警戒が強化されました 願いをかなえようと人が押し寄せぬように
隕石でないとすると何ですか?
まだ分かってません
あなたのお考えは?
さあ… どうでしょうか 同僚の考えでは人類へのメッセージ または贈り物だそうです
贈り物ならありがたいが なぜそんな好意を?
私たちの幸せのために 花はまた咲いていますがなぜか匂いがしません お待たせしました しお時を測っていたんです
何の声だ?
生きているのでは? 話してくれたでしょ? ゾーン発生時にここに来た人々ですよ
そんなことはあり得ません では出発です
帰りはどうやって?
ここは通りません 打ち合わせ通りに 道筋は私が決めます はぐれると危険ですよ まずあの電柱を目標に 教授が先頭で行きましょう 次はあなた 彼について行くんです
主よ! 何という… 乗ってきた人々はどうなったので?
知りません
ここを目指して駅に人が群がってました 子どもの頃見ました どこかを侵略するような勢いでした さあ 教授 あなたも “部屋”があるのはあそこです
なんだ 手が届く距離じゃないか
長い手があればね 長い 長い手が いけません! ダメです 手を触れないで! およしなさい!
何だ? 血迷ったか?
ゾーンは神聖な場所です 罰せられますよ!
罰だと? ただこれだけでか? ならば口で言え
言いましたよ
あそこかね?
ええ しかし一直線には行けません 回り道をしないと
なぜだ?
まっすぐが1番近道とは限りません 用心しないと
まっすぐ行くと死ぬ?
聞きなさい
回り道は安全?
まっすぐよりは…
分からん 説明してくれ わざわざ遠回りすることはない どのみち危ないわけだ
甘く見てはいけません
包帯付きナットはもうたくさんだ 私はまっすぐ進む
冷静に
私の勝手だ
失礼 風が出てきた 草が揺れてるでしょう
そういう態度ならなおさらだ
何が“なおさら”? お待ちを
手を離すんだ
結構です では教授が証人です 私は止めました 責任はご自身ということで
いかにも 他には?
ありません どうぞ 幸運を祈ります いいですか 万が一のときなにか特別なものを感じたりしたらすぐ戻ってください
鉄の棒だけは投げるな
止まれ 動くな
なぜです?
何がだ?
なぜ止めたんです?
あなたではないのか?
どうした? なぜ止めた?
私ではないよ
教授でないなら誰が? 誰なんだ…
お見事 シェイクスピア先生 進むのも戻るのも嫌だったのか 自分で声を出せば片がつくというわけか
やめなさい
なぜウォッカの瓶を…
もうよしなさい! ゾーンは… 罠のシステムなんです はまれば死にます 無人のときはともあれ人が入ってくると活動を始めます 古い罠が消えて新しい罠が生まれ安全だったところも危険に… 単純に見えた道筋もときに混乱に転じてゆく それがゾーンです 気まぐれに見えるかもしれませんが実は私たちの精神状態の反映です 道半ばで引き返すしかなかった人もいます “部屋”を目前に亡くなった人も すべては自分次第です
善人を通して悪人を殺すのか?
よく分かりませんがゾーンは絶望した人間を通すように思えます 善悪に関係なく不幸な者を 不幸な者でも己を失うと破滅です あなたは幸運です 警告してもらえた
私はここで待とう 行ってきなさい 幸福を求めて
いけません
食べものも水も持っている
私といないと危険です それに同じ道は戻りません
動きたくないな
では帰りましょう 料金はお返しします 手間賃を少し差し引きますがね
どうします?
進もう ナットを投げてくれ

そこで何をしてるんです? 行きますよ
やれやれ あの調子ではまた説教を聞かされるぞ
“振動させ続けなさい あなたの心に生じたその響きを 情熱と称するものは魂の力ではなくて魂と外界の摩擦だ 気をいっぱいにして脆弱であれ 幼子のように弱くあれ 弱いことは偉大であり強いことは無価値だ 人は生まれたときは弱くやわらかい 死ぬときは堅く干からびている 木は生長するときやわらかくしなやかだ 乾き堅くなると木は枯れる 堅さと強さは死の仲間だ やわらかさと弱さはみずみずしさの表れだ 堅くなったものは勝つことができない”
こっちです もうすぐ乾いたトンネルです あとは楽ですよ
そう願いたいね
もう進んでいるのかね
もちろん なぜです
待ってくれ なにか見るだけだと思っていた リュックを置いてきてしまったんだよ
もう戻りませんよ
いや 取りに戻る ないと困る
ここでは同じ道を戻ってはならないんです
宝石でも詰めてきたんですか? 望みのかなう部屋のこと忘れたんですか?
子供じみたまねはおやめなさい
まだ遠いのかね?
直線距離だと200メートルですが回り道しますから
経験主義など捨てなさい 奇跡の邪魔ですよ 聖ペテロでさえ溺れかけた
行きなさい
どこへだ?
ハシゴを下って 教授も早く ここが乾いたトンネルです
悪い冗談だ
符丁ですよ いつもなら泳いで渡ります
教授はどこだ? いないぞ
教授! 教授! 一緒じゃなったんですか?
どこかではぐれたんだな
リュックを取りに戻ったんでしょう もうダメです
待ってみよう
ここは刻一刻変化するんです 待てません
こんな所にどうして火が…
分かるでしょう ゾーンだからですよ さあ 急ぎましょう
いた!
わざわざお迎えとはどうも
どうしてここに?
やっとたどりついた 這うようにして
私たちを追い越すとは…
追い越す? リュックを取りに戻っただけだよ
ナットがある
何と言うことだ これは罠です ジカブラスがわざわざ残したものです なぜゾーンが私たちを通したのか… 主よ… 今は1歩も動けません そうですよ そうだ 休みましょう 念のためナットから離れてください もう教授のことは諦めていました 案内する人のことはここに来るまでよく知らないままですので まあよかった よっぽど大事なリュックらしいから
嫌みかね 何も分からないくせに
何を分かれと? ニュートンの法則ですか? 調査費用も出ないから気圧計か何か詰め込んでゾーンを調査するんでしょうよ 不法侵入して奇跡を科学的に解明しゾーンの謎を究明できれば世紀の大発見だ テレビは騒ぐ 評判は高まる 月桂冠が運ばれてくる われわれの教授は白衣をまとって現れ厳粛な顔で神託をお伝えになる 口あんぐりで聞いていた皆はやがてノーベル賞だと騒ぎ出す
作家といってもその程度の想像しかできないとはあきれたな 三文文士どころか便所の落書もどきだ
慣れない皮肉はおよしなさいな 要領を得ない
ではノーベル賞を目指すか あなたは? ゾーンで得たひらめきで人類に貢献しようとでも思っているのかね?
人類ですって? その中のひとりにしか関心ありません 自分のことだけです 自分に価値があるのか ただのクズなのか
クズだと分かったらどうする?
あなたと議論はしないよ アインシュタイン先生
議論こそが真実を生む 遺憾ながらね 聞こえるかね 親方? ここには大勢連れてきたんだろうね?
それほどではありません
皆何を求めてここに来たのかね? 何を望んだ?
幸福をでしょう
幸福といってもいろいろあるぞ
そこまでは分かりません 個人の問題ですから
あなたは幸運だ 私は幸せな人に会ったことがない
私もです 望みはすぐにかなうわけでなく二度と会うこともないのでここから帰った人のことは知りません
自分では部屋に入ってかなえたくないのかね 自分の望みを?
今のままでいいです
ねえ 教授さん さっきのひらめきの話だが私が部屋に入った結果天才作家になっても何の意味もない 人間が物を書くのは苦しみ疑うからだ 自分や周囲に己の価値を証明したいからですよ 自分が天才だと分かったら何のために書くんです? 必要ありません 私に言わせるなら人間の存在意義とは…
静かにしてくれ 眠りたい 昨晩は一睡もしてないのでね そういう話はもう…
いずれにせよあなた方の科学技術など溶鉱炉や車輪その他もろもろはより少なく働きより多く食らうための怠惰の象徴ですよ 人類が存在するのは創造するためです 芸術作品をね それは人間の他の活動に比べれば無欲に近い 真理の探求など意味がない 錯覚に過ぎません 聞いてますか? 教授
無欲とはお気楽な 飢えて死ぬ人もいるのに 浮世離れしたことばかり
これで知的特権階級とは 抽象的思考力がない
さっきから人生の意義を説いてくれた上に思考法もかね
無駄ですね 教授なのにあなたは無知だ
“私が見ていると大地震が起こって太陽は毛織の荒布のように黒くなり月は全面血のようになり天の星はいちじくのまだ青い実が太陽に揺られて振り落とされるように地に落ちた 天は巻き物が巻かれるように消えていきすべての山と島とはその場所から移されてしまった 地の王たち 高官 千卒長 富める者 勇者 奴隷 自由人らはほら穴や山の岩かげに身をかくした そして山と岩とに向かって言った さあ われわれをおおって 御座にいます方の御顔と子羊の怒りとからかくまってくれ 御怒りの大いなる日が来たのだ その前に立つことができようか”
“この日ふたりの弟子がエルサレムから7マイルばかり離れたエマオという村へ行きながらこのいっさいの出来事についてたがいに語りあっていた イエス自身が近づいてきたがしかし彼らの目がさえぎられてイエスを認めることができなかった イエスは彼らに言われた 「歩きながら互いに語りあっているその話は何のことなのか?」” お目覚めですか? さっきあなた方は人生や芸術の意味についてお話しでしたね 音楽はどうです 現実と最も関係が薄いし主義主張もなく全く機械的な意味のない音で連想も呼び起こしません それなのに音楽は人の魂に直接ひびくのです 体内の何が共鳴するのでしょう?何が単なる音のつながりを喜びに変えて何のために私たちを感動させるのでしょうか? 誰のためでしょう? 何のためでも誰のためでもなく“無欲”なのですか? そんなはずはない すべて必ず価値を持っているはずです 価値と理由を

それはあそこへ行くということか?
残念ながら他に道はありません
薄気味悪いですね 教授 先に行きたくはありません 遠慮しておきますよ
それじゃクジで決めましょう
少なくとも志願はしません
マッチを どうも 長いのが“当たり”です どうぞ 長いほうだ ついてませんね
せめてなにか投げてほしいですね
いいですよ さあ
分かった 行くぞ
早く! 教授!
ここに… ドアのようなものが!
入って 開けて中に入るんです
今度もか? 私が先頭か?
そうですよ 急がないといけません いけません 武器なんか出しては 破滅ですよ 戦車を見たでしょう 早く捨てなさい
捨てるんだ!
どうせ銃なんか役に立ちません お願いだから捨ててください 一体誰を 誰を撃つつもりですか? 時間がない 急いで
水があるぞ
手すりにつかまって 出口で動かずに待っていてください お持ちでないでしょうね 銃などは
アンプルだけ持ってきた 毒薬さ
死ぬために来たんですか?
万一の用意だよ
危ない! 戻って! 動かないで待つように言ったでしょう 動かないで まずい
君が先頭を行くべきだったんだ 彼は何をするか分からん
石を落としたのも実験だ こうして実験を続け事実を証明するのか? 事実など存在するものか ゾーンの謎だって? そんなものだれかの想像上の産物さ それを究明しようという 何のために? その知が何を生むのだ? 良心の呵責が理由か? 私の良心か? 良心などない あるのは神経だけだ どこかのバカに罵られて傷つき別のバカに褒められまた傷つく みんな私の魂も心も食いつくそうとする 恥まで引きずり出しむさぼる ひとりひとりは教養もあるが皆感覚的に飢えてるんだ 束になって原稿を急かす ジャーナリストや編集者批評家女どもが騒ぐ “早く書け 早く書け”と 私が作家だと? 書くことを嫌悪しているこの私が? 苦しみだ 病的で恥ずべき行為だ 痔を押しつぶすような 自分の本がだれかのためになるとも考えたがそうはいかない 私が死ねば忘れられ別の人間が餌食になる 私は奴らを変えようとして逆に同類になってしまった 以前は未来が現在の続きにすぎなかったが地平線のあたりで混乱して未来は現在に合流した 分かっているのか? 奴らは知ろうとしない むさぼるだけだ
運がいいですね ここまで来られた あと100年は生きられますよ
永遠ではないのか 「さまよえるユダヤ人」か?
どうやらあなたはすばらしい人なんですね あなたは苦難を乗り越えました あのトンネルは一番の難所です 肉挽き機と呼ばれていて何人も死んでいます ジカブラスの弟もです 繊細で才能がありました 聞いてください “ひっそりと夏は去った 夏などなかったかのように日なたはまだあたたかい ただそれだけでは足りない 起こりえるすべてのことが私には手のひらに収まるように思われる ただそれだけでは足りない 善もなく悪もない むなしいものなど何もない ひとつの火となり燃えさかる ただそれだけでは足りない 生は私をその羽根のもとやさしく包んでくれたのだ 私は本当に幸運だった ただそれだけでは足りない 葉は焼かれずに枝も折られずに日はガラスのように透き通る ただそれだけでは足りない” 彼が詠んだ詞です
なぜ急に詞など聞かせる? たくさんだ
うれしいんですよ 皆が無事に着けた しかし2人とも良い人です 私には分かります
おだてるつもりなのか? “運命”? “ゾーン”? 私が良い人間だ? マッチは2本とも長かった 分かってるさ 人を悪く言いたくないがこの卑劣漢は教授がお気に入りらしい 私が気に入らないから肉挽きトンネルに放り込んだんだ 自分に他人の運命を決める権利があるとでも?
そうじゃありません
どうして長いマッチをつかませた?
あなたが引いたマッチは本当に長かった 言わばゾーンがあなたを選んだのです 本当です 私は人を選びません 間違えたら大変ですから だれかが行かねばなりません
はい… いや診察所じゃない! 何が“だれかが行かねば”だ
いけません!
第9研究室を頼む
お待ちください
私だ 分かるか?
何の用だ?
君らが隠したものを見つけたよ 旧館第4貯蔵庫でな 聞こえているか?
保安部に通報するぞ
よかろう 通報でも密告でもするがいい だが私を止めることはできんよ あと数歩の所まで来ている 聞いているか?
学者生命は終わりだぞ
結構だ
どうなるか分かっているのか?
また脅しか 私はずっとおびえて生きてきた 君にもな だがもう怖くはない
落ち着け 早まるんじゃない 君はその器じゃない 私が君のかみさんと寝たから今頃になって仕返しか よかろう やるがいい 卑劣なまねでも何でも だが覚えておけ 徴役どころでは済まんぞ 一生良心の呵責に苦しめ 牢獄の便所で首を吊る君の姿が目に浮かぶ
どうしたんだね 教授?
皆が部屋を信じ始めたらどうなる? ここへ殺到するだろう それは時間の問題だ 何千人どころではすまないだろう 中には没落した王や異端審問官 独裁者にそれにさまざまな慈善家たちも世界を変えようとして押しかけるだろう
そんな連中は…
連れてこないと言うのか? 君だけがストーカーじゃない それに誰が何の目的で来るか君たちは知らないだろ? 動機不明の犯罪が多いが君たちのせいかもしれん 軍事クーデターもだ 政府内のマフィアは君たちの上客では? レーザーに生物兵器 金庫に隠されている汚らわしいもろもろ 関係ないか?
もう結構 吐き気がする 本気でそう思っているのか?
良い話は信じないが怖ろしいことなのでね
ばかばかしい 個々の人間の愛や憎しみはそんなに強くはないよ 世界を変えられはしない 金だの女だの昇進だの嫌いな上司を呪う その程度のものだ 世界正義や神の国の追及は個人の願いごとではない 個の力では実現しないイデオロギーや哲学だ 無我の愛なんか成立するはずがない 本能的欲望がまさるさ
他人の不幸をもとにした幸福など…
これではっきりしたな 教授は高尚な善意から破壊を決めた しかし私には分かる あなたには何もできない 人類はおろか自分のことも大それたことなど無理だ ノーベル賞をもらって喜んでいなさいな 結局世の中は不条理なことだらけだ どうにかできると考える方が誤りですよ あの電話もです 望みとは違うものが手に入る
どうして…
電話… 電気… おや 珍しい導眠剤だ いまは禁止されている薬ですよ
行きましょう 暗くなる前に部屋に入らないと
なるほどな 詞を朗誦したのもわざわざ遠回りしたのもすべて許しを請う手続きだったのですね 分かりますよ あなたの過去も知っているが惑わされないぞ あなたを許さない
やめてください 教授 こちらです ちょっと待ってください
急いではいないよ
お怒りでしょうが言わせてください 私たちはいま入り口にいます 最も重大な瞬間ですよ この部屋に入れば一番の望みがかなえられるのです 最も切実な心からの望みがです 言う必要はありません ただ精神を集中してこれまでの人生を思い出してください 人は過去を思うときより善良になります ただひたすらに… ひたすらに… 信じてください さあ どうぞ どなたから? あなた?
私か? いや 入りたくない
ご心配なく すぐに終わりますから
すぐだと?
どうだかな それに過去を思い出しても善良になれはしない 自分なら恥ずかしくてできないのではないか? 卑屈な態度で鼻水たらして許しを請う…
“許し”ですって? 自意識過剰ですよ 心の準備ができてないんでしょう 分かります
あなたが先に
私だ
出たぞ 教授の中の教授による発明 最新式精神分析器具の登場だ
これは爆弾だ
何だって? ご冗談を
爆弾だよ 20キロトンの
何のために?
昔私が仲間たちと作った かつての同僚たちと ここは誰も幸せになどしない 悪用されるばかりだ それを防ごうとこれを作ったんだ だがその後ゾーンを残そうという意見が出た 自然が与えた奇跡かも知れないし希望を残しておこうということになった かつての仲間たちは爆弾を隠したが私が見つけ出したのさ 彼らの暴走を防ぐには破壊しなくてはならない 御心配なく 気は確かだ あらゆる無頼の徒にこの病巣が解放されているかぎり眠りも安らぎもない それともゾーンが自衛してくれるかね
お気の毒 苦労性ですな
よこしなさい!
暴力はよしなさい
何だ この偽善者め!
どうして私を殴るんです? なぜです? 希望を失ってもいいんですか? 世間に希望は残されてません ここだけが希望を抱ける場所なのです あなた方も来た どうして破壊するんですか?
やかましい! 正体は分かっているぞ 同情するふりをして他人の不幸をあざけっている それで稼いでいる ここでは貴様は王だし神だからな 汚らわしい偽善者め 他人の命をもてあそぶとは ストーカーはなぜ自分で部屋に入らない? なぜか? 秘密の権力を楽しんでるからだ さぞ楽しいだろうよ
それは違う 違います ストーカーは自己利益を目的にしてはいけないのです ジカブラスがいい例です 確かに私はできそこないです 世間では何もできません 妻も幸せにできず友だちもありません ただ私にはここがある 奪わないでください 私からゾーンを ここがすべてなのです 私の幸福も自由も尊厳も全部あるんです 私と同じように痛めつけられた人たちをここに連れてきて助けることもできます 希望を与えるんです 私にはできる 人助けできるのは幸せです 他には何も要りません
そうかもしれない だがやはり貴様は正気じゃないな 本当は理解していないんだろ なぜヤマアラシは首を吊った?
我欲のためにゾーンに入ったからです だから弟を肉挽き機で
だがなぜ自殺した? 弟を取り戻しにくればよかったのに 取り乱したのか?
そうしたかったでしょうが… 分かりません
ここでかなう望みとは無意識のものなんだよ さっき自分で言っただろ 一番切実な夢がかなうのだと 自分でも気付かない本性が表れるんだ ジカブラスは我欲に負けたのではない 弟を返してくれと哀願したのにゾーンが彼に与えたのは大金だったのだ  そんな自分の本性を突きつけられ良心や心の痛みは己の本質ではないと悟り彼は首を吊ったんだ 私は部屋に入らない 自分の本性の腐肉など欲しくないし他人にも見せたくない 首を吊りたくもない 自分の家で飲んだくれているほうがましだよ こんな人間を連れてくるとは人を見る目がないな ところで教授は奇跡の話をどこで聞きました? ここで望みがかなうなどと? ここに来て幸福になった人に会いましたか? ジカブラスですか? そもそも誰に聞いたのですか ゾーンやジカブラスや部屋のことを?
彼からだ 私も分からなくなった ここへ来る意味が…
静かですね 聞こえますか? そうだ 何もかも捨てて妻や“お猿”と一緒にここへ移ってこようかな ここで暮らそうか… 誰もいないし… 面倒もない

帰ったのね どこの犬?
付いて来た 捨てることはできないだろ
さあ 帰りましょう “お猿”も来てるのよ 行きましょ 犬は要りませんか?
家で5頭飼っている
犬がお好きなんですね いいことですわ
もういい 行こう

今度ばかりは疲れた 苦しかったよ どこがインテリなんだ 作家だと 教授だと!
落ち着いて
あいつらは信じるための器官が退化しているに違いない きっとそうだ
分かったからもうやめて 行きましょう 起きてよ こんな所に寝ないで 脱いで
何て奴らだ!
かわいそうな人たちなのよ 同情してあげなくちゃ
うつろな目だったろ? 自分を売り込むことしか奴らを考えてないんだ 感情すら計算ずくだ 人生についてたわごとを並べ立てるが天国とは無縁だ なにかを信じたことなどない
さあ もう落ち着いて 少し眠ったほうがいいわ
誰も信じようとしない 誰ひとりとして信じようとしない 誰を連れていく? 主よ 怖ろしいことに誰もあの部屋を必要としていません 私はむなしい努力を… もう誰も連れていく気はない
私が一緒に行ってあげようか? それなら満足? 私にも願い事があるわよ
ダメだ ダメだよ
どうして?
絶対ダメだ お前にもしものことが起こったら…
母は死ぬまで反対でした 夫はああいう変わった人でしょう みんなの笑いものになってのろまで哀れな人でした 母は言いました “ストーカーよ 呪われた永遠の囚人よ ろくな子供は生まれない”って 私は答えられませんでした 彼と結婚したら大変だろうってことも覚悟はしてました でも好きになったんですから仕方ありません 苦しむだろうけど苦しみの中の幸せのほうが単調な暮らしよりましだろうなんてあとで無理にこじつけました ある時彼に突然“一緒になろう”と言われました 私は後悔してません 本当です 怖い思いも恥ずかしい思いもしました でも後悔は1度もしてません それが運命なんです 従うしかありません 生活に苦しみがなかったら味気ないでしょう 苦しみがなければ幸せもないでしょうし希望もありませんから 以上です
“私は君の瞳を愛する 友よ ふと眼差しを上げ閃光のごとく熱くあたりを眺めやるその瞳を私は慈しむ その燃える瞳を だが一層まさるものは情熱の口づけに伏せた瞳 そして私は見つめる 君のまつげの下に輝く 憂いを含みほの暗い欲望の炎を”

『ストーカー』

森の中は戦場だ これは実際の出来事ではなく普遍的な戦争の話である 従ってここで闘う兵士たちも我々の想像の産物だ この森で起きていることはいずれも史実ではない しかしどんな世界であろうと恐怖と不信と死は普遍なのだ この兵士たちは我々と共通の言語を話すが彼らの祖国は心の中にしか存在しない

俺たちを捜してる?
味方の飛行機だ
気づかない 墜落した機体は?
残骸が燃えてなきゃ見えないさ
俺たちを見つけても助けには来られない
ここは10キロも敵地に入り込んでるからな
たいした距離じゃない
そうですかね 10キロの間に何千もの敵兵が俺たちを狙ってきますよ
心配ならもう少し声を落とせ
心配はしてません
どうなるんです中尉 墜落したのを見た敵が俺たちを捜してるかも
まず武器を入手しなければ これでは不足だ ライフルを持ち出せず残念だ 方法を考えよう 現在の状況を正確に把握し頭を使えば脱出できる これが前線だ 墜落直前の位置からすると我々は今この辺にいる 味方がここで我々はここ この東に川があるはずだ 前線を通って味方の陣地へ流れている 現状で手に入る物を使い川を利用して脱出する
川を下るということですか?
そうだ
でもどうやって? 俺とフレッチャーは泳げません
いかだを使う 夜間にな他の方法では無理だろう 徒歩での脱出など自殺行為だから問題外だ 川を下れば数時間で全員自陣に戻れる わたしの計算によると…
中尉の計算ですか 計算の結果がこのザマでしょう
代案がなければ川へ向かおう 獣にも注意しろ
足が疲れた
早く! 見つかるぞ
とにかく川へ
1人でもできる
敵兵なんて…
ここは危険だ
この責任は…
もっと注意していれば…
腹が減った
誰だって怖いんだ
空腹でもう限界だ
枝を踏む音が頭に響く
ひと休みしたい
鳥がケガを
俺は逃げないぞ
木の枝に何かが
急ぐんだ!
もう年だからな
森に飲み込まれる
死にたくない
とにかく歩くんだ

我々は皆迷いながら人生を送っている 本当の自分は何者か居場所はどこかと… 人は孤独ではない? 大昔氷河期の頃はそうだったかもしれない 今は氷河が溶けて我々は皆孤島に独りだ 世界は孤島ばかりになった

最悪の状況だな 昨日の犬と代わってもらえるなら何でもやるよ
人間は窮地に陥るといつも犬に嫉妬するらしい 確かに見通しは明るくないが… いかだの様子を見に行こう
敵が待ち伏せしてるかもしれません
賭けだよ 危険なのは昨日も今日も同じだ 偵察して安全を確認する
それから? いかだの周辺に敵がいなければ?
夜まで待つ 満月でないことを祈ろう 不安なら歌を歌ってもいい
どうした子猫ちゃん 敵は人食い人種だから猫は食われないさ
やめてくれ
マック 森の中でも文明人らしくしろ
ごもっともですがこんな所に長くいたら文明なんて言ってられませんよ

今でも自分の立場に不安を覚える 怯えた兵士たちを指揮し殺戮を行っているのが自分だと認めたくない 現場を離れ命令だけ下す自分にも嫌気が 見動きが取れん 何かに捕らわれて… 私は人の墓を作っている
閣下に乾杯
時々地図を見ていると… 疑問に思うことがある 自分の墓はどこにあるのかとね ここか… ここか またはここか

戻るでしょうか?
分からん 自分が戻れた実感もない 皆自分の領域から離れ過ぎた 他者が見えなくなり自分に戻れなくなった それでもいいが…
私もです ある意味よかった 急に自由になって… 以前の欲望がなくなった 他に何も望めないからいいんです でも一方で欲望を取り戻せたらと…
つらいのか
そういうわけじゃ… やっぱり俺には耐えられない
誰だってそうだ 全ては幻覚だ まだ死にたくない者が見る幻さ

『恐怖と欲望』