あらゆるところに彼女は存在していた

アパートに泊めてやって、猫の世話まで頼みながら、カレンの名字も知らないなんてと彼女は考えた。

彼女は、このところ自分の頭のなかに入ってきて知覚されるありとあらゆるものごとが、たちどころに文化のなかに入りこみ、絵画や写真や髪形やスローガンになるように思えてならなかった。自分だけの私的な思いのどうしても言葉にならない細部でさえ、絵葉書や広告板の中に見られるのだ。彼女は、自分がこれから撮影することになっている作家の名前が新聞や雑誌に載っているのを見た。まるで彼女が世界中に伝染性の光輝のごときものを撒き散らしているみたいに、無名の人々の名前が印刷され、名声を獲得していくのだった。東京で彼女は、美術雑誌に複製されたある絵画を見た。パネルにはめこまれた『摩天楼Ⅲ』というタイトルのカンバスには、彼女がちょうど自分のアパートの窓から眺める角度で、しかも自分と同じ疎ましい気分で世界貿易センターが描かれていた。まさしくそれは、彼女におなじみの高層ビルだった。窓もなく屹立し、視界に入る空間を埋め尽くす二本の黒いラテックスの石板がそこにあった。

電話でおしゃべりしている男が言った。「じゃあ明日、そちら時間で一時ということで」

何と興味深いことだろう。というのもブリタは、次の日の一時に、一度会ってくれとせがむある雑誌の編集者と会う約束をしていたからだ。ひょっとすると、何か写真のことを聞きつけたのかしらと勘ぐってみたくもなった。

あのフィルムの束を現像しなくてはならないのだろうかと、彼女は考えた。だがあの朝、撮影の最後の段階で垣間見たビルの顔の記憶が彼女を悩ませた。あの目には何とも言えぬ恐ろしい輝きがあった。彼女は、人が己自身のはるか昔の痛みにあれほど全身で没入していくのを見たことがなかった。絶え間なく内向を続け、最初の認識に立ちかえり、当惑に立ち戻っていく人生というものもあるのだと彼女は思った。だからこそ、あまたの物悲しさがあのドアをよぎるのだ。

乗務員が空になった彼女のカップを持っていった。

スコットとのことについては、やましい気がしてならなかった。あれは見当違いのセックスだったんじゃなかったかしらと彼女は思った。二人がいっしょに過ごした間じゅう、彼女は、ビルが薪を割るのを浴室から裸で見下ろしている女であり続けた。イメージというものが、肉体的存在である個我の間に割り込んでくるさまはいかにも奇妙だった。そう思うと彼女はスコットに対して申し訳ない気分になった。一度彼に電話をしてみようと、州北部の地図を片手に、記憶の糸を懸命に辿って道路表示板を思い起こし、ようやくいくつかの群の番号案内に電話をかけてみた。ところが、記載の有無に係わらず、スコット・マーティノという名前はどこにもなかった。それに、ビル・グレイはどんなレベルにおいても存在せず、カレンにいたっては名字すら定かではなかった。

スクリーンに映った顔は、彼女と同じビルに住んでいる俳優のものだった。その俳優は彼女に百五十ドルと三本のワインの借りがあった。彼女は、ジャズを頭のなかでガンガン響かせ、薄暗い光の中に浮かび上がる彼の顔を目の当たりにしてはじめて、あのときの借りをまだ返してもらっていないことに気づいた。

彼女は、かつて自分がソウルで撮影しようとした作家の一人が、転覆罪と放火罪と共産主義活動の咎で刑に処せられ、まだ刑期九年を残していることに思いを馳せた。あのときどうしても面会が許可されず、彼女は憤慨のあまり当局に悪態をついてしまった。みっともないこと限りなかったが、恥ずかし気もなく芸術家としての彼女がそうさせた。だが彼女にしてみれば、その作家の顔をちゃんとフィルムに収め、その似姿が独房から七千マイルも離れた暗室のルビー色の光のなかに浮かび上がるのを見たことの方が、よほど重要に思えたのだ。

彼女は、自分の家と作品とワインと猫を、得体の知れぬ娘に委ねていた。

同じ列の座席の一番端の子供が日除けを上げたとき、彼女は、目の前に広げていた雑誌をもう見たくないと思った。もしかしてそこに、自分の人生に出てくる何かを見てしまうかもしれないからだ。彼女は地上五マイルの空中で座席に固定され、封印されていたが、世界はあまりにも身近にあり、あらゆるところに彼女は存在していた。

 

『マオⅡ』