紙を考えてるんだよ、体じゃなくて

二つの暗いオブジェ、白いボトル、積み重ねられた箱。リアンは絵から目を逸らし、部屋全体を静物画のように見た、一瞬だが。人間の身体が現れてきた、母とその恋人。ニナはまだ肘掛け椅子に座っていて、ぼんやりと何か考えている。マーティンはソファの上で体を丸め、彼女と向き合っている。

ついに母が言った。「建築物、確かにそうね、たぶん。でも、まったくほかの時代のものよ、ほかの世紀の。オフィスタワーじゃないわ。この形は現代のタワーには変換できないわよ、ツインタワーには。これは、そうした拡張や投影を許さない作品。見る者を内面に向けさせるのよ、奥深くに。ここに見えるのはそれ、半分埋もれているもの。物体よりも、あるいは物体の形よりも、何か深いもの」

一瞬の光が閃くように、リアンには母が次に言う言葉がわかった。

「死ぬ運命にあるっていうことについて。そうじゃない?」

「人間であること」とリアンは言った。

「人間であること、死ぬ運命にあると言うこと。こうした絵は、ほかのすべてを見なくなったときに目を向けるものだと思うわ。ボトルや壺を見るの。ここに座って、じっと見つめる」

「もうちょっと椅子を近づけないといけないんじゃない」

「椅子を壁にくっつけるわ。管理人さんを呼んで、椅子を押してもらう。自分ではそれができないくらい弱っているだろうからね。じっと見つめて、考える。じゃなきゃ、ただ見つめる。しばらくしたら、絵も必要としなくなる。絵は余計なものになる。壁を見つめるのよ」

リアンはソファまで歩いて行き、マーティンの腕を軽くつついた。

「あなたの壁はどうなの?何が掛かってる?」

「うちの壁は剥き出しだよ。家であると同時にオフィスだから。何も掛けないんだ」と彼は言った。

「まったく何も掛かってないわけじゃないわ」と二ナが言った。

そうだな、まったく何もってわけじゃない」

彼女は彼を見つめていた。

「私たちに神のことを忘れろって言うのね」

それはずっと続いていた議論だった。空中にも、肌にも染み込んでいた。しかし口調の変化は唐突だった。

「これが歴史だって言うのね」

ニナは彼を見つめた、激しい視線をマーティンに向けた。彼女の声には非難が込められていた。

「でも、神のことが忘れられないのよ。彼らがいつでも神を引き合いに出すんだから。それが彼らの最古の拠り所だし、最古の言葉なの。そう、ほかにもあるけど、それは歴史や経済ではない。男たちが感じることよ。男たちの中で起こること。ひとつの考えが流布し出すと、血が沸き立つの。その背後に何があろうと―どんな闇雲な力、鈍感な力、暴力的な欲求であれ。すごく便利なわけよ、そうした感情やそうした殺人を正当化するような信仰体系が見つけられればね」

「でも、その信仰体系はあれを正当化していないよ。イスラム教はあれを認めていないんだ」

「あれを神と呼んでしまえば、神ってことになるの。神が許すものは何でも神なのよ」

「それがすごく奇怪だってわかってる?自分が何を否定しているかわからないかな?きみはあらゆる人間が他者に対して持ちうる不平不満を否定しているんだ。人々を対立させてきた、歴史のありとあらゆる力を」

彼はうずくまり、彼女の方へ体を傾けて目を凝らしていた。

「彼らがきみたちを殺せば、きみたちは彼らを理解しようとする、おそらく最後には、きみたちも彼らの名前を覚えるだろう。でも、そのためには、まずきみたちを殺さないといけないんだ」

議論はしばらく続き、リアンはずっと聞いていたが、彼らの声の熱意には不安を感じた。マーティンは片手でもう一方の手を掴み、議論に包み込まれるように座っていた。そして、失われた国土、失敗に終わった国家、外国の介入、金、帝国、石油、西洋人の自己中心主義などについて語った。それを聞いて、リアンはどうしてマーティンがあのような仕事ができるのだろうかと考えてしまった。芸術品をあちこち動かし、利益を得て、生活しているなんて。そして自分の壁には何も掛かっていないなんて。彼女にはそれが不思議だった。

ニナは言った。「タバコを吸わせていただきますからね」

これが部屋の緊張感を解いた、彼女が深刻な言い方をしたことによって。この声明と行動が、議論していたことの深刻さに合わせるかのように、重大そうな雰囲気を持っていたのだ。マーティンは笑い、うずくまっていた体を伸ばして、キッチンへ次のビールを取りに行った。

「私の孫はどこにいるの?クレヨンで私の肖像画を描いてくれているの」

「お母さん、二十分前にもタバコを吸ったわよ」

「絵のモデルをやってるんだから、リラックスしなきゃいけないのよ」

「あと二時間で学校が終わるわ。キースが迎えに行くの」

「ジャスティンと私、肌色について、体の色合いについて話さないといけないのよ」

「あの子は白が好きなの」

「すごく白いって考えてるみたい。紙みたいに」

「目には明るい色を使うわ。髪の毛にも、たぶん口にも。でも体の色になると、白く見えるみたい」

「紙を考えてるんだよ、体じゃなくて。作品自体が事実を表している。肖像画の主題は紙なんだって」

マーティンが入って来た。グラスの縁からビールの泡をすすっている。

「白いクレヨン、もっているのかしら?」

「白いクレヨンは必要ないの。白い紙があるんだから」と彼女は言った。

彼は立ち止まり、南側の壁に貼られた年代物のパスポート写真を見つめた。古びて染みのついた写真。ニナは彼を見つめた。

「すごく美しいし、威厳があるわ」と彼女は言った。「こういう写真と、写っている人々って。ついこの間パスポートを更新したの。十年間があっという間に経っちゃった。紅茶を一口すするみたいに。写真写りなんて気にしたことなかったんだけど―ほかの人たちが気にするみたいには―でも、今度の写真にはゾッとするわ」

「どこへ行くの?」とリアンは訊ねた。

「どこかに行かなくたって、パスポートは取得していいんだよ」

マーティンが彼女の椅子のところまで来て、すぐ後ろに立った。そして彼女にもたれかかりながら、優しい声で話した。

「どこかへ行った方がいいよ。長旅をね、コネティカットから帰ったらだけど。今は誰も旅をしないだろ。考えてみるべきだよ」

「その気になれないわ」

「ずっと遠くへさ」と彼は言った。

「ずっと遠くへ」

「カンボジアとか。ジャングルに完全に覆われてしまう前にね。きみがよければ一緒に行くよ」

母は一九四〇年代のギャング映画の女性のようにタバコを吸った。危機一髪の緊張感を孕む、白黒映画の一シーンのようだ。

「パスポート写真の顔を見るとね、こう思うわけ。誰、この女?」

「洗面台から顔を上げるときだな」とマーティンは言った。

「誰、この男って?自分の顔を鏡で見ているはずなんだけど、自分じゃないのよね。自分の顔はこんなじゃなかったと思うわけ。文字通りの自分の顔じゃない―そんなものがあればだけど。何か、合成された顔なのよ。変化しつつある顔っていうか」

「そんなこと言わないでくれよ」

「あなたが見ているものは私たちが見ているものとは違うのよ。あなたが見ているものは記憶によって歪んでしまっている。ずっとこの期間、この数十年、どういう人間であったかによって」

「そんなこと聞きたくないな」と彼は言った。

「私たちが見ているのは生きた真実よ。鏡は、本当の顔を覆ってしまうことによって、衝撃を和らげている。顔はあなたの人生そのもの。でも、顔は人生の中に埋もれてしまってもいる。だからあなたにはそれが見えない。ほかの人たちにだけ見えるのよ。それからもちろん、カメラにも」

彼はグラスに向かって微笑みかけた。ニナはタバコを消した、ほとんど吸っていないのに。染みのような煙の流れを手で払いのけた。

「それに顎髭があるわ」とリアンは言った。

「顎髭は顔を隠すのに役立つのよ」

「顎髭ってほどのもんじゃないけど」

「でも、そこが芸の細かいところ」とニナが言った。

「だらしなく見せるっていう芸」

「だらしないけど、すごく繊細って感じ」

「これって、アメリカ的ジョークだな。そうだろ?」と彼は言った。

「顎髭はうまい仕掛けよね」

「髭に向かって話しかけるんだよ」とニナは言った。「毎朝、鏡に向かってね」

「何て話しかけるの?」

「ドイツ語でしゃべるんだよ。顎髭はドイツ国籍だから」

「おだててくれるじゃないか」と彼は言った。「こんなジョークのネタにしてくれるんだからな」

「鼻はオーストリア―ハンガリー国籍」

彼はニナの後ろに立ったまま身を傾け、手の甲で彼女の顔に触れた。それから空のグラスをもってキッチンに行き、二人の女はしばらくそのまま黙り込んでいた。リアンは家に帰って眠りたかった。母は眠そうだったし、彼女も眠りたかった。家に帰り、キースとしばらく話をしてからベッドに入り、眠り込みたかった。キースと話をし、あるいはキースと話をせずに。いずれにしても、家に戻ったとき、彼にいてほしかった。

マーティンは部屋の向こう側から話しかけ、女たちを驚かせた。

「彼らは世界に自分たちの居場所が欲しいんだよ。自分たちの地球規模の連合体が欲しいんだ、我々の連合体ではなく。恐ろしい戦争だってきみは言うけど、それはいたるところにあるし、理に適ったものなんだよ」

「私、だまされてたわ」

「だまされちゃダメだよ。人間が神だけのために死ぬなんて思っちゃいけない」と彼は言った。

携帯電話が鳴ったので、彼は体の位置を変えた。壁に向かい、胸に話しかけるかのように話していた。リアンは以前にもこういう会話の断片を聞いたことがあった。遠くから聞こえてくる会話には、相手が誰かによって、英語、フランス語、ドイツ語などのフレーズが含まれていた。そしてときには、ブラックとかジャスパー・ジョーンズといった宝玉のような言葉も聞こえてきた。

彼は用件を急いで済まし、携帯電話をしまった。

「旅、そうだよ、それこそ考えてみるべきだ」と彼は言った。「膝が正常に戻ったら、ぜひ行こう、本気でね」

「ずっと遠くへ」

「ずっと遠くへ」

「廃墟へ」と彼女は言った。

「廃墟へ」

「ここにも廃墟はあるわ。でも、わざわざ見に行きたいとは思わない」

彼は壁沿いに歩いて、ドアの方に向かった。

「でも、そのためにタワーを建てたんじゃないのかな?富と権力の幻想としてのタワー。それは、いつの日か破壊の幻想になるように建てられたんだ。そうじゃない?ああいうものを建てるのは、それが崩れ落ちるのを見られるようになんだよ。挑発的な意味は明々白々だ。ほかに理由なんてあるかい、あんなに高くして、それをダブルにするなんて?同じことを二回するなんて?これは幻想なんだから、二度やったっていいだろって言ってるんだ。さあ、できた、壊そうぜって」

それから彼はドアを開け、外に出て行った。

 

『墜ちてゆく男』