道徳的な欠落

それはローゼレン・Sに起きた。はるか遠い子供時代からの根本的な恐怖。彼女はどこに住んでいるのか思い出せなくなった。高架鉄道の下の街角にぽつんと立ち、すべてから切り離されて、気持ばかりが焦っていった。店や道路の標識など、手がかりになるものを探した。世界が遠のいていくという、何とも単純なことに気づいたのだ。彼女は、物事をはっきりと区別する感覚を失っていった。道に迷ったという以上に、落下し、気を失っていくようだった。彼女のまわりには沈黙と距離しかなかった。彼女は来た道を引き返そうとした。あるいは、自分が来たと思っている道を。そしてひとつの建物に入り、玄関に立って、耳を澄ませた。人々の声が聞こえたので、それを追っていくと、部屋に突き当たった。そこでは十人ほどの人たちが座って本を読んでいた。聖書だった。彼らはローゼレンに気づくと、朗読をやめ、彼女が何か言うのを待った。彼女は何に困っているかを説明しようとした。ひとりの人が彼女のハンドバックを開けて電話番号のリストを見つけ、迎えを呼んでくれた。ブルックリンに住む妹で、ビリーという名でリストに入っていた。この女性がイースト・ハーレムまで来て、ローゼレンを連れ帰った。

リアンはこのことをアプター医師から聞いた。それが起きた翌日だった彼女は数カ月のあいだ、老人たちがゆっくりと衰えていくのを見てきた。ローゼレンはまだときどきは笑うし、皮肉の感覚も損なわれていない。上品な顔立ちと栗色の肌の小柄な女性。彼らは避けられないことに近づきつつあるのだ、ひとりひとりが―もはや少しの猶予しか残されていない。この時点では、それが起きるのをただ見つめているしかないのだ。

ベニー・Tは言った。朝、ズボンがうまくはけないことがあるんだ、と。それに対してカーメンは言った。「うまく脱げないよりはいいわよ。ズボンがちゃんと脱げる限りは、セクシーなベニーのままだから」。彼は笑い、足を踏み鳴らした。そしておどけて頭を叩きながら、実のところそういう問題ではないのだと言った。彼は自分がズボンをちゃんとはけているかどうか自信が持てないのだ。ズボンをはき、ズボンを脱ぐ。ジッパーが前に来ているのを確認する。鏡で裾の長さを確かめる。折り返しが靴のすぐ上に来るように。ところが、折り返しがない。折り返しがあったのは覚えている。昨日、このズボンには折り返しがあったのに、どうして今日はないのだろう?

彼は、みんながどう思うかはわかっている、と言った。自分にとっても奇妙なことなのだ。彼は「奇妙」という言葉を使った、もっと意味深長な言葉を避けて。しかし、それが起きているときは、そこから逃れられないのだと言った。自分のものではない精神と肉体のなかに入って、着替えている自分を見ている。ズボンはうまく合わないように思われる。彼はズボンを脱ぎ、またズボンをはく。ズボンを蹴るように脱ぐ。ズボンの中を見る。これは他人のズボンではないかと思うようになる。自分の部屋で、椅子に掛かっていたズボンなのに。

皆はカーメンが何か言うのを待った。リアンも彼女がある事実を指摘するのを待った。ベニーは結婚していないという事実。あんた結婚してなくてよかったよ、ベニー。ほかの男のズボンが椅子に掛かってたら、あんたの奥さんはどう言い逃れするだろうね。

しかし、この時のカーメンは何も言わなかった。

オマー・Hはアップタウンに行った時の話をした。彼はそのグループの中でただひとり、その地域以外に住んでいた。彼が住んでいるのはロワー・イーストサイド。そこから地下鉄に乗り、プラスチックのカードをスロットに通そうとしたのだが、六回もやり直さなければならなかった。改札を変えても、「もう一度スロットに通してください」という表示が出てしまう。それからアップタウンまで長いこと電車に揺られ、気付いたらブロンクスの荒れ果てた街角に立っていた。その途中の駅をどうして飛ばしてしまったのかは見当もつかない。

カーティス・Bは腕時計が見つからなくなった。そしてついに薬棚の中で見つけたとき、それをどうしても手首に付けることができないように思われた。時計はちゃんとある、と彼は深刻な声で言った。自分の右手に握られている。なのに、右手はどうしてもそれを左手首まで持っていけそうにない。空間に空白の部分があった、あるいは視覚的なギャップが。彼の視野に裂け目があったのだ。そして彼は両者をつなげるのに時間がかかった―手から手首、リストバンドの先端からバックル。カーティスにとって、これは道徳的な欠落だった。自己を裏切るという罪。最初の頃のセッションで、彼は五十年前の出来事について書いたものを読んだ。酒場で喧嘩し、割られた壜で男を殺したのだ。男の目をガラスで突き刺し、頸動脈を切断した。彼は紙から顔を上げてこの言葉を言った、「頸動脈を切断した」と。

彼はその時と同じ慎重な口調を使った―暗く、宿命的な声―腕時計がなくなった話をするときも。

 

『墜ちてゆく男』