大丈夫だよ

僕はジルのところに戻って事情を知らせた。ジルは荷物が並んでいるところにへなへなとくずおれた。様式化された倒れ込み。完了するのに数秒かかった。

「なんてネオロマンチックなの!今日にぴったりだわ。ここの飛行機の座席数って、いくつ?四十?」

「いや、もっとだよ」と僕は答えた。

「どれくらいもっと?」

「とにかくもっと」

「で、私たちは何番目だっけ?」

「五番と六番」

「四十人よりもっと後の五番と六番ね」

「予約しても来ないのがたくさんいるよ」と僕。「密林に吞み込まれちゃうんだ」

「バカ言わないで。この人たちを見てよ。まだ次から次へと来てるじゃない」

「見送りの人たちもいるさ」

「神様、この人が本当にそう信じているなら、私はこの人と一緒にいたくありません。だいたいこの人たち、ここのいる理由なんかないのよ。オフシーズンなんだから」

「ここに住んでる人もいるんだよ」

「で、どの人がそうだか、わたしたちわかってるのよね?」

 

「このフライトは満席です」と彼は言った。「満席になりました」

残ったのは八人か十人程度だった。みな旅行者の悲しみをたたえた穏やかな顔をしている。

 

この場所は実に完璧に近く、ここに連れてきてもらったことがどれだけ幸運だったかを自分に言い聞かせる気にもなれないくらいだった。新しい場所の最良の部分は、我々自身の歓喜の叫びからも守られなければならない。言葉は数週間後、数か月後の、穏やかな夜のために取っておく。そんな夜のちょっとした一言が、記憶を蘇らせるのだ。誤った一言で風景は搔き消されてしまう、と我々は一緒に信じていたように思う。この思いそれ自体も言葉にされぬものであり、我々をつないでいるものの一つなのだ。目を開けると、風に流される雲が見えた。疾走する雲。一羽のグンカンドリが気流の中に浮かんで、長い羽をじっと水平に広げている。世界と、その中のすべてのもの。自分が原初の瞬間に抱かれていると思うほど僕は愚かではなかった。これは現代の産物だ。このホテルは、客が文明から脱出したと感じるようにデザインされている。しかしそれほどナイーヴではないにしても、僕はこの場所について疑いを掻き立てる気分でもなかった。僕たちは半日ほど苛々した気分を味わったのだ。車で空港に行って戻る長い道のり。そして今、体に冷たい淡水を感じている。太陽の上を飛ぶ鳥、低空飛行する雲の速さ、その巨大な頂が転がっている。僕もプールの中でふんわりと漂い、ゆっくり回転する。リモコンで快楽が操作されているかのように。僕はこの世界に生きるとはどういうことかわかったように感じた。そう、これは特別だ。真剣な旅人の探求の端で輝いている、天地創造の夢。剝き出しの自然。あとはジルが薄いカーテンの向こうから歩いて来て、黙ってプールに体を浸すだけだ。

 

「大丈夫、帰れるよ。六時四十五分のフライトが無理でも、午後の遅い便でね。もちろん、そうなると、僕たちはバルバドスで乗り換える便を逃すことになるんだけど」

「聞きたくないわ」と彼女は言った。

「代わりにマルティニクに行くのでなければね」

「あなたって、退屈と恐怖が私にとって同じであることを理解した唯一の男ね」

「その知識を乱用しないようにしてるんだけど」

「わざわざ退屈であろうとするのよ。退屈な状況を好んで探し出すの」

「空港とか」

「タクシーでの一時間とか」

 

すべてが新しいとき、喜びは表面的なものとなる。僕は彼女の名前を声に出して言うこと、この彼女の体の色を挙げていくことに、不思議な満足感を覚えた。髪と目と手の色。新雪のような乳房の色。陳腐なものは何一つない気がした。僕は一覧表を作って、分類したかった。単純で、根本的で真実。彼女の声は柔らかく、利口そうだった。目は悲しげだった。左手はときどき震えた。困難に巻き込まれてきた女性。あとあとまで取り憑くほどひどい結婚、あるいは親友の死。彼女の口は官能的だった。耳を傾けるとき、ゆったり頭を後ろに反らした。髪の茶色は平凡だが、ところどころ灰色の短い線というか、閃光のようなものが入っていて、光の変化によって現れたり消えたりするように見えた。

 

「ドイツ語を喋って」と僕は言った。

「どうして?」

「それを聞くのが好きだから」

「ドイツ語、知ってるの?」

「音が聞きたいんだよ。ドイツ語の音が好きなんだ。重金属が詰まっている感じ。“こんにちは”と“さようなら”をどういえばいいかは知っているよ」

「それだけ?」

「自然に話してみて。何でもいいから言ってみて。打ち解けて話す感じで」

「ベッドでドイツ人になりましょう」

 

「あなたってこれを楽しんでいるわけ?」と彼女は言った。「行ったり来たりを?」

「さまようのが好きなんだ」

「答えになってないわ」

「本当だって。さまようのが好きなんだ。チャンスがあるたび、いつでもちょっとさまよおうとするんだよ」

「あなたはホテルに戻りなさい。六週間、さまよっていれば?」

「一人じゃ嫌だよ」と僕は言った。

 

墜落の噂から始めるのがベストだろう。それが本当でないとわかれば、彼女はホッとするはずだ。そうなれば、キャンセルのことも受け入れやすくなるだろう。しかし、話しはじめると、そんな戦略は無意味だと気づいた。彼女の顔はだんだんと死人のようになっていった。内面でありとあらゆる自己が崩れていく。彼女は届かない存在と化し、ぴくりとも動かなかった。

 

クリスタの唇が動いたが、言葉は出てこなかった。

「大丈夫だよ」と僕は言った。「君は一人じゃない、悪いことは起こらないよ、一日だけだし。大丈夫だよ、大丈夫。しばらく一緒にいよう。それだけだよ。もう一日、それだけ」

「ホテルで二人きりでいよう。僕たち以外に客はほとんどいない。一日中休んで、何も考えないでいればいい。何一つ。君が誰で、どうしてここから出られなくなり、次にどこに行くのかなんて、どうでもいい。君は動く必要もないよ。日陰に寝ていればいい。日陰に寝そべるのは好きだろう?」

「僕たちは一緒にいよう。君は休んで、眠ればいい。今夜は静かにブランデーを飲もう。そうすれば、気持ちも落ち着くよ。きっとそうなる。絶対にそうだって信じている。君は一人じゃない。大丈夫だよ、大丈夫。この最後の時間を一緒に過ごそう。それだけさ。そして、僕にドイツ語で語りかけてくれ」

 

『天使エスメラルダ 9つの物語 天地創造』