人食い

数年前北海に浮かぶ小島から画家ユーハン・ボルイが突然姿を消した 彼の日記帳を保管する妻アルマが当時の事情について語ってくれた この映画は彼女の話と日記にもとづいている

 

いいえ 話すことはない 日記は渡したわ なぜ島に残るのかって? ここに来て7年になる 毎年冬は本土に移って私が勤めに出た 生活費のためよ 来月赤ん坊が生まれる 最後に診察を受けたのは5月だった 金曜だったわ もう夜の10時だったけど外は明るかった 8月まで島にいる予定だった 2人きりの生活よ 夫は人づき合いが嫌いだった 話し相手は私だけ 愛してくれてた ここに着いたのは午前3時 小屋に手押し車があった リンゴの木がかわいい花をつけてた でも台所の外の花壇になぜか人の足跡が 少し気になったけどじきに忘れたわ 幸せだった 故郷に戻った気がした でも彼は違った 絵のほうが不調でイライラしていたわ 夜も眠れず闇を恐れているようだった 最近は特にひどかった

 

見てくれ 島の人たちをスケッチしてきた こいつは一番よく会う男だ ゲイだな この老婦人は“帽子を取るわよ”が口癖 取ったあとは? 顔がはがれるんだ 見ろ こいつは最悪だ “鳥男”と呼んでる くちばしは作り物かな すばしこい男だ 「魔笛」のパパゲーニだよ ほかの連中はどう猛な獣や昆虫 クモ男もいる 校長はズボンに指示棒を差してる ペチャクチャおしゃべりする中年女たち まだ眠るな もうすぐ夜明けだ 明ければ眠れる 1分が永遠に思える 計るぞ 10秒 のろ過ぎる たった1分だぞ まだ過ぎない 過ぎた 長かった アルマ どうした 何か言ってくれ

ずっと前から気になってたことがある 聞いてる? 一緒に暮らしてもう7年… その話じゃない 思い出した 長年一緒に暮らした2人は相手に似てくると言うわ そっくりになるのよ 考えることだけじゃなく顔つきまでも なぜかしら? そんなふうになるまで連れ添いたい 同じことを考えしなびたシワだらけの顔がそっくりになるまで あなたは? 寝たの? ユーハン 立って ベッドで眠りましょう

 

怖がらないで 何もしないわ 手を出して 私の手に触ってみて 冷え切っているのが分かるはずよ この年になるとしかたないわ 216歳なんですもの いやだ 間違えたわ 本当は76歳よ 失礼するわ も行かなくては 何か言い忘れた ああ 思い出した ベッドの下に黒いカバンがある 彼が見せたスケッチが入ってるわ 彼は破ろうとしてる 破ってはいけないと言いなさい それと日記帳も入っているから読みなさい ひどい風!

 

7月22日水曜 体調が悪い 倒れはしないが不快だ

失礼 声をかける機会をうかがっていました お邪魔してすみません 男爵のメルケンスです この島の所有者で北の城に住んでいます ご夫妻を金曜に食事に招待したい

ご親切に

質素な料理だがワインと魚には自信がある では失礼 私も家内もあなたのファンでね お近づきになりたかった

 

7月27日木曜 暑い1日だった まだ気分が良くない

ほら このアザ あなたがつけたのよ 忘れちゃったの? パーティーへ行くために緑のドレスを着てた 髪が乱れて苦労したのよ 手袋も忘れた 実は話があるの 匿名の手紙が来たわ 昨日届いた 聞いて “君のことをいつも見張ってる 危険が迫っているぞ 悪夢が現実となり終わりが訪れる 泉が枯れて君の太ももを別の液体が伝う 運命だ” 読んで吐き気がしたわ 手が燃えてるみたい 熱があるの? あなたに会うたびに疲れ切ってしまうの そして午後いっぱい夢を見る すべてがむなしく無意味に思える 背中のジッパーを下げてちょうだい

 

風は強いがいい天気だ 画家には理想的な場所ですな 私も長く住んでます 犯人は必ず現場に戻り罪を重ねる お疲れのようですな お互い若くないんだからムチャは禁物ですよ 失礼 心理研究家のヘールブランドです 人の心の奥底をのぞくのが仕事です 芸術家ならよくご存じでしょう でないと肖像画や自画像は描けない ご機嫌斜めのようですな 気に障りましたか?

うるさい 黙れ!

 

ここでお慰みに人形劇を上演いたします 消してくれ 今日の主役だ どうぞ前へ モーツァルトの「魔笛」はまさに傑作だ タミーノが城の外に残され絶望して叫ぶ場面です “永遠に続く夜よ いつになれば明けるのか いつになれば光が差すのか” 病身のモーツァルトの心の叫びです コーラスの声が答える “まもなく明けるか 永遠に明けぬかだ” 天上の調べのごとく美しく心をかき乱す音楽です タミーノは尋ねる “パミーナは無事か?” コーラスが答える “パミーナは生きている” この奇妙でしかし魅惑的な響きをお聞きなさい パミーナ パミーナ… もはや名前ではない 魔法の呪文のような言葉です 金のために書かれた作品だが見事な芸術たりえている 違いますかな?

自分を芸術家だとは思っていません 私が絵を描くのは強迫観念からです 人は音楽家や画家を特別な目で見る 怪物扱いする だが芸術家もしょせん平凡な人間だ 時には誇大妄想に陥って熱くなることもありますが 頭を冷やし芸術の無意味さを再認識するようにしてる 強迫観念と闘いつつね

すばらしいわ

さすがは本職だ

実に勇気がある

芸術家にして哲学者だ 恐れ入った 乾杯しよう

バラを飾ってあげる いやだ 引っかいてしまったわ 血が出てる おふきなさい きれいなハンカチよ 私ったらごめんなさいね

少し外に出て酔いをさましたら? あまり寝てないんです 出ましょう

 

恐ろしい体験をしたよ 道で会った男と世間話をしていたらいきなりほおを殴られたんだ 血の気のない憎しみに満ちた顔 あまりの驚きに取り乱して問いただすこともできなかった いくら考えても理由が分からないんだ あの目は忘れられない

 

あなたの日記を読んで怖くなった ちゃんと聞いてよ 何日も考え続けて分かってきたの 何か恐ろしいことが起こりそうな気がする でも逃げたりしない 絶対あなたから離れない 待ってよ あの人たちは私からあなたを奪おうとしてる ユーハン 何があっても離れないわ ずっと一緒にいる 何とか言ってよ ユーハン!

 

静かだな

ええ とても

夜は眠るものだと思っていた 何の不安もなくぐっすりと眠れたのに… 今は違う アルマ 疲れたか

いえ 大丈夫よ

夜が怖くてたまらない 特にこの時間だ 呼び名がある “狼の時刻”だよ 病人が死に赤ん坊が生まれる時刻だ 悪夢がやってくる 眠れない

怖いから?

そうだ

どうしたの 子供の頃のことを思い出した 悪さをした時罰としてクロゼットに閉じ込められた 中は真っ暗だ 恐怖のあまり扉をたたいて暴れた お化けが住んでると聞いていたからだ “悪い子が来ると足を食いちぎる”と ふいに隅のほうでカサカサと音がした 食われると思った ただ逃げたい一心で棚によじ登ろうとした だが服がまとわり付いて思うように動けず下に落ちた 化け物を追い払おうとこぶしを振り回し泣きわめきながら叫んだ “ごめんなさい” ようやく扉が開けられ出ることができた 父が言った “十分に反省したかね” 私は必死でごめんなさいと言った 父が“ソファに乗れ”と 私は命令に従った 父の部屋のソファにクッションを並べステッキを用意して尻を出しソファに乗った “何回ぶってほしいか”と尋ねられて何回でもいいと答えた そしてぶたれた 痛かったが何とか耐えられた 終わってから母に向き直り許してくれるかと尋ねた 母は泣いて“当たり前でしょ”と 母の手を取り口づけした

 

錠は?

掛けたはずよ

こんな早朝からお邪魔します 今日は天候が荒れるようですな 伝言があります 手短に済ませますよ 城でパーティーを開く予定でしてね ささやかな催しです 城でいがみ合う連中の気晴らしですよ 招待客は僅かだがぜひ来ていただきたい ヴェロニカも来るんですよ いいですね? 決まりだな ところで男爵も私もあなたの身を案じてる 妙な連中がいますから 話はそれだけです ではまたパーティーで

銃なんかしまって

なぜだ 今日の予定は?

ヴェロニカの話をして

ただ5年間続いたというだけさ 人に知られ騒ぎになりもみ消された それだけだ

日記と違う “彼女への愛が私を責めさいなむ 嫉妬に駆られあとをつけてしまう 彼女は私の熱情に引きずられただけだろう 時には理性を失い口論することもあった 彼女の夫を逃れあちこち放浪した 男女は一体であれという聖書の教えを守った だが結局夫に捕まり私は病院へ 離ればなれになった” 言ったわよね “君は一人の人間として独立している 自分の考えを持ってる 君は君 僕は僕 その距離感がいい” 私うれしかったわ 感激した でも違った 分からない あなたという人が分からない 怖いの ここにいたら殺されるかもしれない あなたが女を追うのを見たくもない おびえ続けるのにも疲れたけど… 離れない

立ち上がれ ドアの前へ 出ていけ もう朝だ どこへでも行くがいい

 

まあ うれしいわ 来てくださったのね お盆を運んで下さる? ありがとう 私の食事なの リンドホーシュトの口癖よ “女は年を取ると食い意地が汚くなる” 一緒にいかが?

パーティーは?

ないわよ まだ行ってはだめよ 靴下を脱がせて 触りたくないのね 顔に書いてあるわ でもいいの? ヴェロニカが来てるのよ 居場所は私しか知らない 芸術家さん 足を見て 若々しくてきれいな足でしょ かかとだってスベスベしているわ しっかりした指につるつるのツメ さあ キスしてちょうだい いい子ね ご褒美に彼女の居場所を教えてあげる 西の回廊に行きなさい 5分前はあそこにいたわ

 

すみません

気にするな いつ来てもいいんだよ ヴェロニカに会うために来たんだろう? 君と知り合う前は私の愛人だった女だ 君との情事を詳しく話してくれた もちろん嫉妬したさ 今夜もだ 君らのバッドの脇ですべてを見せてもらう 案内するよ すまん 一人にしてくれ

分かりました 失礼します

 

クライスラーさんよ

彼はハープシコードの名手なの

ヴェロニカがお待ちかねよ あなたのために身支度してる夫はそれを見てのたうち回っていた やいてるのよ アルマも気の毒にね 1発は致命傷だったわよ

すばらしい調べだこと よく聞こえるように帽子を取るわ

糊を使ってるの ひどいニオイでしょう? 本人は違うと言ってるけど

 

恋人に会う前に身だしなみを整えないと 幽霊のように青白い顔だな まるで染めたように唇が紫色だ まず何から始めればいいかな 上唇はくっきりと 下はふっくら豊かに 官能的だ 目が充血してる 冷やしなさい 閉じて まぶたにはくっきりラインを描く いいぞ パウダーで肌色を整えよう 私のガウンを来て行くといい よしよし なかなかいい感じだ ぴったりだな こういう時は絹のパジャマでないと 香水は? 体臭がきついと嫌われるぞ そうなる前にシュッとひと吹き どうだい? 鏡を見てごらん 自分であって自分ではない あいびきには理想的だ ついて来なさい この部屋だよ 楽しむがいい

 

ヴェロニカ

あの人たちのことは気にしないで

ありがとう とうとう壁を越えられた 鏡が割れた だが破片には? 何が映ってる?

 

ええ 3発よ 腕をかすった1発でケガをしたわ 恐ろしさのあまりじっと横たわってた 彼は外を歩き回って道のほうへ駆け出した 私は傷口の血を洗って包帯を巻き腰を下ろして待った 何分かたつと夫が戻ってきたので思わず隠れたわ 彼は変になってた ブツブツ言いながら歩き回り日記帳を取り出して何時間も書いていた 終わるとカバンを詰めて森へ消えていった 早まったことをしないか心配で追った

 

ユーハン 私が分かる? ユーハン 彼はどこ?

あっちだ おいで 呼びなさい

ユーハン! ユーハン!

 

あと1つだけお話が かまわない? 教えてほしいの いい? 女と男が長い間一緒に暮らしてるとそっくりになるんでしょ? 愛する人と同じことを考え同じものを見たくなる そして人が変わってしまう 私たちは幻覚まで共有したの? 現実だったの? 強すぎる愛情がよくなかったの? もし私が情の薄い女なら夫を守ってあげられた? それとも愛が足りないから嫉妬に振り回されたの? 彼はあの人たちを“人食い”と呼んでた 彼は食われてしまったの? 夫婦の絆を感じてた あの人もそうだったわ 言ってくれたもの ずっと一緒にいてあげれば… 考えても答えは出ない 疑問ばかり もう何が何だか分からないの…

 

『狼の時刻』