時よ止まれ

月曜の早朝 ひどく痛む 姉と妹とアンナが毎晩かわるがわるそばについていてくれる

おはよう 様子は?

大丈夫よ 眠っちゃった

アンナ 火を


神よ 新たな朝に感謝いたします ご加護のもとでぐっすりと眠れました 日々お祈りします どうか娘をお守りください 天に召された亡き娘を アーメン


毎日母を思い出す 死んで20年になるのに 母は孤独を求めて庭をさまよった 気づかれぬように追い遠くから見つめた 母を独り占めしたかった あの優しさも美しさもぬくもりも 母は時に冷たくよそよそしかったが私は憎まず同情した 今では母のことが分かる もう一度会って言いたい 倦怠やいらだちや欲望や寂しさが分かると 十二夜には親類が集まった オルガ叔母が幻燈を見せてくれる 仲間外れの気分だった 私にはいらいらとせっかちに話す母がマリーアとはささやき合っている うりふたつだ いったい何を笑ってるのかしら? 楽しげな部屋で私だけが独りぼっち でもある秋の日だった カーテンの陰から母を見ていた 真紅の壁に囲まれた白いドレスの母 手をテーブルに載せうなだれている 私に気づき優しい声で“おいで”と また叱られると思いおずおずと近づいた でも母の顔があまりに悲しそうなので… 思わずほおに手を 一瞬だけ母に近づけた


誰かいるわ アンナ! 誰かいる

おはよう アングネス

おはよう 先生

弱ってる 長くはあるまい 見送りは結構

ダ―ヴィッド 久しぶりね また会える?

だめだ


マリーアは夫のヨーアキムと数年前アングネスの留守中この邸宅に滞在した ある夜アンナの娘が病気に マリーアは主治医に往診を頼んだ

お疲れでしょう 何か召し上がる?

ええ ありがたい

姉たちはイタリアに 手紙が来たわ アングネスの咳が止まったそうよ また絵を描いてる カーリンの旦那様も一緒 夏みたいな陽気ですって 夜は冷えるけど

ご主人は?

商用で出かけたの 戻るのは明日 あなたが来ることを話したわ よろしくって

どうも

寝室を用意したわ この天気だもの 泊まっていって 変わったわね

私が?

他にいるの?

いるさ 私の変化などに関心が?

ないわ メガネね お邪魔?

別に

水くさいわね 昔を忘れたの?

おいで ここへ 鏡をごらん 君は美しい あのころ以上に だが変わった 分かるかい? 視線に落ち着きがない 以前は真正面から堂々と私を見つめた 口元には欲求不満が 昔は違った 肌のつやも消えて厚化粧になった 広く美しい額にはしわが刻まれている この明かりの中じゃ見えないだろうが なぜしわができたと?

さあ

無関心さ 耳からあごへの美しかった輪郭もぼやけてる 自己満足と怠惰のせいだ 鼻筋も しかめてばかりだ 人をせせら笑ってる 分かるか? 目の下には人生に退屈しきった女の細かいしわがある

観察したの?

キスした時にね

笑えばいいわ どうせ反映だもの

何の?

あなた自身の 私たちそっくりよ

つまりわがままさも冷たさも無関心も?

あなたの理屈にはうんざり

我々のような者は許されないのか?

慈悲など必要はないわ


おはようございます

ありがとう

ヨーアキム おかえりなさい アンナの娘が病気になったの 先生がまたチェスをしましょうって 嵐なので泊まっていただいたわ 今朝お帰りになったの お仕事大変だった? エーゲルマン夫妻が復活祭に招いてくれたわ たまにはいいかもしれないわね そうでしょ?

どうかな

あなた ヨーアキム?

助けてくれ 助けてくれ!


アンナ 聞こえる?

風と時計の音だけですわ

いいえ 別の音よ

私には何も

寒い おやすみ

アンナ 来て アンナ ここへ来て 遠すぎる 近寄って そばにいて 私の体におう? 苦しいのよ

存じてます ここにいます 良くなりますよ

痛いの

あたしがついてますからね

枕が熱い

替えましょう さあ 起きられますか? 少し下がって いかが? 楽でしょう?

優しいのね


何か?

アングネス様が 呼吸がとても苦しそうで…

カーリン

どうしたの?

容態が悪いみたい

行くわ 先生を

私も

先生は?

留守だった アンナ 着替えてきて 楽になった

熱っぽいけど

体をふいて着替える?

お願い のどが渇いた

本でも読む?

聞きたいわ もういやよ 誰か助けて お願い 誰か私を助けてよ!


神は大いなる英知と慈悲をもって若きアングネスを天に召された 生前の苦しみは神がお与えになったもの お前はよく耐えた 主キリストの死により罪が許されるからだ 天なる父がお前の魂を祝福してくださるよう この世での苦しみを忘れさせてくださるよう 私たちの苦しみをお前の肉体に集めすべて持ち去ってほしい そして彼方の国で神のもとへ赴き神と向かい合ってほしい もしお前に主の言葉が話せるのなら神に話しかけてくれ 私たちにために祈ってほしい アングネス 私からのお願いだ 暗く汚れた地上に残された者のためにどうか祈ってくれ 私たちの罪を許すよう神に請うてくれ こう頼んでくれ 私たちを不安や倦怠や疑惑から解き放ってほしい 人生の意味を知りたい 長い試練に耐えたお前の言葉ならきっと聞き届けてくださるだろう 私は名づけ親だ よく信仰の話をした 私より信心深かった 葬儀の件については明日教会で話そう


カーリンと夫フレードリックは数年前この邸宅に滞在した 夫は多忙な外交官だった

魚のお代わりを 君は?

いらない

おかしいか?

別に 寝る前にコーヒーでも?

コーヒーは結構だ もう遅い ベッドに入ろう

何もかもウソばかりだわ 見ないで その目つきは何! ごめんなさい 怒った? 着替えるわ 下がって 何もかもウソよ 積み重ねたウソ ウソばかり…


それは?

財産関係の書類よ

姉さんと仲よくなりたいの 話し合いましょ 一緒に育った姉妹なのよ 体に触れもせず世間話ばかり そんなの変よ カーリン姉さん 友達になって 楽しい時も悲しい時も一緒に泣いたり笑ったり一晩中しゃべったりしたい 抱きしめたい 姉さん この家は不思議だわ 妙に懐かしい 夢の中みたい 今にも何かが起こりそう ええ 私は子供よ 姉さんほど教養もないし世の中も知らない もっとお互いのことを深く知りましょうよ 近づきたいの よそよそしい沈黙は嫌い ごめんなさい 怒った? 悪気はなかったのよ 姉さん

それは?

アングネスの日記

読んで

“9月30日 木曜日” こうよ “人生で最高の贈り物をもらった 人の優しさや思いやり ぬくもりや愛情 これが神の恩寵なのだ” やめて 近づかないで! 触れたくない お願い 触らないで やめて 私に優しくしないで 耐えられないの 責め苦だわ 地獄のよう 息もできないほど苦しくてたまらない! いやよ いや! お願い 放っておいて 私に触らないでちょうだい


今朝はつい取り乱して悪かったわ 大切な妹が死んで動揺していたのよ あとのことは弁護士に任せましょう この屋敷は売るわ アングネスの分は私たちで相続を それで文句はないわね? アンナ 下がって アンナをどうする? いくらか渡して暇を出しましょう アングネスの形見をやってもいい 尽くしてくれたわ でも家族のことに首を突っ込むのは… そうよ 私は何度も死のうとした 惨めなの 何もかも 毎日苦痛が続くだけ 弁護士は優秀な人よ 夫に叱られたわ その通り 私は不器用よ 手が大きすぎる ヘマばかり 居心地が悪そうね こんな会話は嫌い? あなたが憎い 人にこびる態度もその微笑も嫌い 今まで黙って我慢してきたわ お見通しよ 優しい抱擁も言葉もうわべだけ 憎しみを抱いて生きる気持ちが分かる? 許しも休息もない 救いもない そんな人間の気持ちが理解できて? 本音の会話よ 満足? 黙って何を考えてるの 聞かせてよ ご感想は? 思ったとおりだわ だんまりね もういいわ! マリーア 許して 悪かったわ 勘繰りすぎた マリーア どうか許して 本気じゃなかった さっきの話は忘れて マリーア 私を見て 見てちょうだい


聞こえますか 泣いてるわ 聞こえます? 泣き声だわ

怖いの?

怖くなどありません

私は死んだわ なのに眠れない みんなが心配で くたびれた 誰か助けて

夢ですわ

いいえ 違う お前には夢でも私には違う カーリン姉さんを呼んで

カーリン様 お呼びです

手を取って温めて 怖いの そばにいて ここは虚無よ

頼みは聞けない あなたの死にかかわりたくない 愛していれば別だけど愛してないから このままおとなしく死んでいてちょうだい

アンナ マリーアを呼んで

マリーア様 中へ

おびえないで 私に触れて話しかけて手を取って温めて

妹だもの そばにいるわ 見捨てておけない 小さい頃夕暮れによく遊んだわね 急に闇が怖くなってしっかり抱き合ったわ 今もあの時と同じ

聞こえない 近づいて もっと… 手を握って

アングネス様 私がいます 泣かないで あたしに任せてください

娘と夫を置いていけない そう伝えておいて

そばにいる気なの? あの子は死んだわ もう腐ってる

一緒にいます!


なかなか悪くない葬儀だった

アンナ 荷造りは?

あと少しです

急ぎなさい

説教が短くて助かったよ 終わるとさっさと帰ってくれた

アンナの件は?

アンナがどうかしたのか

12年も勤めてくれた 今後を考えてやらねば

必要ない いい給金を出してきたんだ これ以上義理はない

形見を約束したのよ

選べと?

ええ もちろん

形見などやる必要はないが約束なら仕方ない

アンナ お前に話がある アングネスの形見は何がいい?

何もいりません

いい子ぶっても私はだまされんぞ

月末で暇を出すわ

はい

これで用件は済んだな

雪がひどくなる前に出発しよう アンナ 元気でな

ありがとう

世話になったわ

急げ

話があるの

何?

あの晩心を開いて話し合ったわよね

覚えてるわ

あのことを忘れないで

ええ いいわよ

私は… もう前とは違う

“仲よし”になれた

何を考えてるの?

あの時のこと

ウソよ

行かなきゃ 夫は待たせると怒るの 私の考えがそんなに気になる? 何が望み?

別に

では話は終わりね 失礼するわ

私に触れた 忘れたの?

何を言ったのかいちいち覚えていられない お子さんたちによろしく また十二夜にね 残念だわ


“9月3日 水曜日 秋の気配が漂っている 気持ちが良かった カーリンとマリーアが会いに来てくれた 少女の頃に戻ったようだ 具合が良かったので近くまで散歩に出た わくわくした 家から出たのは久しぶりだ みんなで笑いながらブランコまで走った 3人で仲よく座った アンナが優しく揺らしてくれる 苦痛は消えた 一番大切な人たちがそばにいる おしゃべりに耳を傾け体のぬくもりを感じることができた “時よ止まれ”と願った これが幸福なのだ もう望むものはない 至福の瞬間を味わうことができたのだ 多くを与えてくれた人生に感謝した”


叫びもささやきもかくして沈黙に帰した


『叫びとささやき』