儀式

伝っておくれ 坊や 昔々… 遥か昔 正教の修道院に老僧が住んでいた 名はパムヴェといった 彼は山に枯れかかった木を植えた こんな木だ そして若い僧にパムヴェは言った その名はイオハン・コロフだ “この木が生き返るまで毎朝水をやりなさい” さてと砂利石をおくれ… それからイオハンは毎朝手桶いっぱいの水を持って僧院を出て山を登り木の根元に水をそそぎ僧院に戻ってくるのは夕暮れ時だった まる3年それを続け晴れた日に山頂に登るとその木に花が満開になっていたのだ この話の教訓は決まり事や手順の大切さだ いいか 父さんも思うんだ 毎日欠かさず正確に同じ時刻に同じことをきちんと儀式のように規則正しく手順を守って行っていればなにかが変わるだろう それ以外に方法はないだろう お前にもできる 目が覚めても床を離れるのを必ず7時ちょうどに決め浴室に行き洗面台でコップに水をそそぎトイレに流すだけでもいい 美しいだろ 日本の生け花のようだ…

おや 何を呻いているんだ? “初めにことばがあった”と言うがお前は黙っているしかない 魚のように 息子よ 我々は道に迷っている 人類は道を誤りひどい危機にある 重くなったな 人間が最初に恐れを知るのは…
最近彼はどうだね
変わりないわ 仕事をしてるわ
あの独白は好きじゃない アレクサンデル!
おや ドクター いま行く しゃれた服装をしてるな それだと歩くのは大変だぞ よく来てくれた
誕生日おめでとう さて“青年” 具合はどうだ? 話せないのはつらくて不安だろうがいい経験だ 意思疎通の訓練になる
私の坊やよ
“私たちの”だろ
うがいをしておとなしく寝ているわ
うがいどころではない 手術中とても我慢強かった それで“青年”に成長したんだよな さあ 大きく口を開けて 順調だ 1週間で話せるだろう それはそうとガンジーは何年も週に1度無言の日を設けていた 規則正しくな 人にうんざりしたんだろう

人間は自分を守ってばかり 周りの人や自然を受け入れない 自然を踏みにじってきた いまの文明の根底にあるのは力と権力 怖れと征服欲だ 技術の進歩と呼ばれるものは画一的で物質的な安楽しか生み出さない そして権力を守る武器だ まるで未開人だ 顕微鏡を棍棒のように使う いや 未開人の方が精神的に豊かだった なにか大切な発見をしても今では破壊の道具に使う “罪とは人生に必要ないものすべてだ” 真の賢人がそう言った 慰めを求めるな 文明は罪の上に築かれたのだ 物質と精神のおぞましい不一致不均衡に我々はたどり着いたのだ この貧しい文化は文明は病んでいるんだ 息子よ 問題を究明し解決しなくてはならない まだ手遅れでないなら 間に合うなら 独り言ばかりの日々だ “言葉 言葉 言葉!” やっとハムレットが分かった 彼も堪えられなかったんだ ではなぜ私は語るのか? 語るのをやめればなにかを成し得るのか? ともあれ試みるのだ 息子よ 私の息子よ… 神よ 何が私に…

あなたのムイシュキン侯爵は絶品だったわ あれで有名になったのにその後あなたは役者をやめてしまった 芝居も何もかも 「リチャード3世」の後よ いまもなぜか分からないわ
“何もかも”? 私がやめた “何もかも”とは何だ?
芝居とすべてよ!
つまり成功のことだな 芝居は“何もかも”ではない 私には堪えられなかった
それはなぜだ?
恥をおぼえた 舞台に立つためにウソをついていた 理解できていない役柄を知った振りをして舞台に立ち演じることは不誠実だよ 堪えがたかった 批評家にも見抜かれていた その不誠実をね
役者は自我も己の気質も捨てろと言うのか 自分を否定しろと?
大げさだな 私は己を役に溶かし込み演じてきた それが嫌だった 役に己を溶かし込む… その感覚は不快だったし卑劣で女性的で衝動的だった
“女性的”なことは罪なの? 私はあなたが俳優の頃幸せだった だからやめたのよね
そうかもな
そうでしょ
だから何だ?
またこれよ もうたくさんよ

こんばんわ お誕生日おめでとう お祝いのしるしにお持ちしました
ありがとう 何ですか?
独りで運べません ヨーロッパの地図です 17世紀末のものです
本物なの?
まさか 写しだよ 複製
とんでもない 本物です オリジナルです
まあ 素敵 中に運び込まないと
だが高価すぎる贈り物ですよ
神の愛には劣ります
しかし高価すぎます オットーさん 我が身を犠牲にせねば…
もちろん犠牲にしてますとも 犠牲なくして何の贈り物でしょう? それでこそ贈り物です

やあ マリア
すべて済ませました 失礼してよいですか?
もちろんよ ありがとう 待って お皿を温めてくれない? 後はユリアがするわ
はい アデライデ奥様 お皿を温めます お皿をすぐに温めます それから失礼します ほかには?
いいえ お帰り ユリアが残るから ああ もうひとつ ロウソクを立てた? 食卓に出して ワインの栓は抜いた? では抜いて それでお帰り
お皿 ロウソク ワイン
マリアは私の隣人です よい友人です
そうかい おめでとう
アイスランド出身で数年前に来ました
変わり者だ
誰が?
マリアだよ そう マリアだ
ときどき怖くなるわ
世界がこのようだったら素晴らしいのに ヨーロッパが火星みたいだ まったく真理から遠い
ごもっとも でも人々は暮らしていました 幸せにです 今日は何日でしょう? 1392年?
これを奥に入れよう 手伝ってください 現代の地図にこの真理はない
どんな真理です? 真理に取り憑かれてますね
真理など存在しません
私たちの目は何も見ていません たとえばアブラムシです…
アブラムシ?
アブラムシは皿の中を回りながらまっすぐ進んでると考えています
アブラムシは考えているのですか 儀式のようなものでは? アブラムシのね
おそらくそうでしょう そうでしょう そうでしょう でなければ“自分たちの真理”にとどまるしかありません

ああ はい ある意味で私は蒐集家です
“ある意味で”?
なぜそんな言い方を?
どう言えばいいでしょう 出来事を蒐集しています 説明が付かない現実です それが現実だと明らかにするには大変時間がかかります たくさん旅をするので出費も だから配達の仕事をしています
説明できない現実? 坊やが喜ぶわ こんな話大好きなの
おやまあ そうですか
よく分からないな はっきりしない
では例を話します どれがいいかな… これにしましょう 戦前 ケーニヒスベルクに寡婦が息子と住んでいました 戦争になり息子が召集されました 18才でした 思い出に写真館で写真を撮ってもらいました 母と息子が一緒に撮った写真です そして息子は… 出征しましたが前線に送られ数日後に殺されました
ああ… そんな…
不幸な報せを受け気が動転してもちろん母は写真のことを忘れました
“もちろん”ですって? 忘れるはずがないわ
そこは重要じゃない
いかにも重要ではありません 母親は写真を受け取ることすら忘れてました 戦後に彼女は思い出がつらくてよその町に移りました
ありえないわ 写真を探さないなんて 最後の写真でしょ
話の腰を折るなよ 失礼した
いいわよ いいわよ 黙ります
失礼しました それでは続けます 1960年のある日 母親は別の写真館で友達に送る顔写真を撮ってもらいました そしてできあがった写真を見ると別の人物が写っていました 出征前の息子です 母親は戦後の老いた姿なのに息子は出征前18歳の顔立ちのままでした
本当の話? 間違いないの?
ええ 本当です
証拠はあるのかね?
その母親と話をして写真をもらいました 母親は1960年の顔立ちで息子は1940年の軍服姿です
何ということ!
ええ 私はコピーですが彼の出生証明書を持ってます 死亡通知書も持っています
煙に巻くつもりか?
とんでもない 似たような事例を300件集めました 正確にはおそらく284件です 私たちは目を開けててもなにも見ていないのです 何の騒ぎなんだか…
ご気分が悪いの?
何でもありません 悪い天使が通りすぎて翼がぶつかりました
悪ふざけですか 配達人殿?
悪ふざけなどしていませんよ まじめな話ですよ

何なんだ?
お騒がせします お休みでしたか?
教えてくれ 何が起こった?
まだひとつ 最後の機会があります
ひとつの機会? どんな機会だ?
希望の機会です
でもどんな希望? 何を仰りたい?
申せませんがマリアが知っています
マリア? どこのマリアが?
彼女を説き伏せに行かねばなりません
でもどこへ行く? 誰を説き伏せるんだ? お入りを 飲んで落ち着いて 日差しがない 私はどのくらい眠ったのか?
そんな飲み方してはいけませんよ 上等のコニャックなのに
みんなはどこだ? 寝たのですか?
階下ですよ 食卓です 愛しています あなたを
食卓に?
マリアの家にすぐ行ってください
でもマリアって誰だ? 詳しく聞かせてください
ご存じのマリアです お宅の家政婦ですよ 説明は後でいたします まず話を聞いてください
聞いてますとも でもそれでどうなるんです?
彼女は湖の向こう岸の農家に住んでいます さびれてしまった教会の隣です
誰が?
“誰が?” 人ではなく教会の話ですよ
誰が住んでいるんですか? 教会はどうでもいいですから
誰が住んでいるか? マリアですよ もう半時間も説明してますよ
もう少しきちんと聞いてください
“きちんと”ね でも何をです? 住まいは妻から教わってます
それならきっと…
はいはい 失礼した 本当に申し訳ない お隣に座りましょう 家政婦がどうだと?
そうです あの家政婦は… 聞こえますか?
何が?
あれは何です?
分かりません 分かりません 音楽のようですね
とにかくマリアの家に行くんです
でもなぜ?すべてを止めたいのでしょ?
止める? 何を?
すべてです “すべて”ですよね
オットーさん
それで済むんです マリアの家に行って彼女と寝るのです
何ですと?
マリアと寝なければなりません
私がマリアと?
彼女は独り暮らしですから簡単です 会ったら全力で止めになることだけ願うんです それですべてが止めになります 何も起こらなくなります
血迷ったんですか? まったく オットーさんは
笑わずに理解してください 本当なのです 特別な力の持ち主です 信じてください 証拠もあります 魔女です
どんな魔女?
善い魔女です
バカにしなさんなよ ニーチェにかぶれてますな
他に解決策はありません 別の選択肢があります? 唯一の方法です
“別の選択肢”? “別の選択肢”? 何の話です?
もう行かねば 自転車を置いてきました ガレージの入り口にあります 車はいけません 自転車で行きなさい ハシゴをかけておきました マリアの家に でもご用心を 前輪のスポークが2本折れてましてね 前にズボンが引っかかりました 水に転げ落ちました どちらの足?
右です ご注意を 私の話分かりましたね 大丈夫ですか?

“初めにことばがあった” でもなぜなの パパ?

『サクリファイス』