プロトコル

「セブンス・コンチネント」のテーマは… あの当時私はよく外国でシナリオを書いた ギリシャの島について書きその島にも行った そこでこの物語に取り組んだのだが 解答を出す気はなかった 私が望んだのは物語ること 一家が自殺し彼らの人生を回想する 6週間努力したが書けなかった それぞれの回想が“説明”になったんだ ある時気づいた 不安な秘密を抱えた人生がこんなふうであるはずがない そうだ “プロトコル”を書こう 3年と1日の間に何が起こるか 解答は観客それぞれが見つけ出せばいい そう気づいてそれからはとても楽にスラスラと脚本が書けた たぶん4週間ぐらいで とても満足したよ テレビ局は不満だった こんな次第だ この事件を物語ることの難しさは… 新聞で記事を読んだ 当然ながら記者は事件をこと細かく説明していた 取材を重ね“父親は借金に苦しんでいた”とか“妻と性的問題があった”とかくだらない説明だ 説明は… 卑小化する
行為の持つ力を
そういうことだ 最初はこれを従来の技法でどう描けばいいか悩んだがとても単純なプロトコルを作ろうと考えついた それがテーマに近づくための私のスタイルとなった 子供たちの持つ能力に関するある研究報告がある 画像の解読力の調査だ 実際の話5、6歳の子供たちは他の年代の人間より素早く画像を再構成できる それと同時に耳で聞いたものは印象が弱いことも明らかになってる “それはこういう意味だ”と理解はできる だが背後に隠された深い意味は分からない そのため… いや そのためではないがこの映画は偽りの情報を与え続ける従来の映画技法へのプロテストでもある 映画に描かれる内容を人は知ってる どんなテーマでもいい ある話を語るならすでにそれを読んでいる ではいかにして観客の心のより深い部分に到達できるのか? ひとつの可能性は“リズム”だ 映画とはリズムだから 私にとって映画は文学よりもっとずっと音楽に近い 最初の数分は断片しか映らない それは日常生活のありふれた光景を示すためだ 人はどのように日常の道具に支配されているか 彼らは生きていない 道具を使い行為を繰り返す 人は行為に縛られる 人生とは行為の総和だ そして何も残らない だから彼らは映画のような破壊行動を取るのだ 一家は自分の家と私物の一切合切すべてを破壊する 同じ激しさで同じゆるやかさで… 破壊に没頭している これを解放のための行為とも呼べるだろう だがあの行為は彼らにとっては解放ではない 映画の一番悲しい部分だ 完全に物語の途中から自殺を決意したところから映画を作ることもできた 挑発的な映画にもできた 解放の映画を撮るのと同じようにね だが私に言わせればそれは“嘘”になる
破壊の暴力は自分に対する暴力だ
そのとおり 彼らが水槽を壊して魚が死ぬとき それはもちろん娘の内面の死を意味している 幼い娘だけはそれに耐えられない 観客の好奇心は描かれている対象が正確であることから生まれる この家族はどちらかといえば中産階級だ それは私のよく知ってる世界で私は知ってることを語った 日常生活のディテールをこと細かに描いたのは正確に描くことによって観客は行動している人物に対して興味が湧く これはいわば“構築”で“破壊”の逆だ 彼らは破壊することによって自らの全人格を構築する
君は破壊の原因より結果に興味を持ってる
そうだ それは現代の人間が物語を語るときに用いる方法なんだ ずっと良心的だよ 原因を知っているふりをするよりも 文学でも同じだと思う 現代では原因を分析した小説を書きたがる作家などどこにもいない なぜこの物語はこう展開するか?人はいつも目の前に現れたものを通して物語る もし説明が欲しいのなら構造で説明すればいい 物語の構造は何かの説明になってる だがそれは常にあいまいで説明的に物語る方法とは対立する “説明する?”
説明的
説明は物語を饒舌で凡庸にする もし少々複雑なテーマならどう説明する? バカげてる だから映画は… 何と言えばいいのか つまり… 言葉が出てこない 忘れてくれ カットだ 交通事故の現場で死体を見たあとに夫は車を洗車機に入れ妻は発作に襲われる
閉所恐怖症に襲われる瞬間だね?
彼女は人生を悟った あの瞬間にね 自分の人生を悟るのは愉快な経験ではないさ
だが純粋に物理的反応で…
彼女が悟ったということを映像で表すためだ あのシーンの撮影はとても難しかった カットのつなぎがね 彼女は絶妙なタイミングで泣き始めた 難しい撮影だったが成功したと思うよ これは3つの映像のモンタージュだ 砂浜と海と奥には山がある 最初はこれはただの写真 広告写真だ 最初に現れたときはオーストラリアの広告写真 最後に現れたときは波が動いている 現実には動くはずがない 写真なんだから動くことはありえない この映像は静かだ だがこの静けさは少なくとも私には不安をはらんだ静けさだ
つまり“死”だね
好きなように解釈できる これは彼らの記憶の中の映像だ 洗車機の中から見たものが心に残った その映像は彼らにとって不安でありながら同時にまた平和でもある あいまいなのだ 私が求めるものは常にあいまいな解答だ 見知らぬものはいつも人に不安をかきたてる どんな映画も不安を扱っている 理解できないものに対して人は不安を覚える なぜ人はよそ者を憎むか? 理解できないからだ 恐怖が憎しみに変わる 残念ながら世界はそういうものだ カンヌに招かれたときプロデューサーに言った “皆が怒るシーンが2つある” それは水槽を壊して魚が死ぬシーン そして金を流すシーン プロデューサーは言った “魚はともかく金は…”
子供も
子供は問題なかった そして予言どおり何人もがドアを鳴らして劇場から出て行った 上映のたびに必ずこうした“抗議行動”が起こった タブーだからだ 通貨を破壊するほうが親が我が子を殺すよりもはるかにショックが大きい 社会全体のタブーなんだ これは私の独創じゃない 新聞の記事に一家がそうしたと書いてあった 私が思いついたかどうか分からない 実際に一家は銀行に行き全財産を引き出して捨てた 警察は金を回収できなかった コインがみんな底に詰まってしまって そのために便器を壊すしかなくて全部壊したんだ この映画でカンヌに行った 初めてのカンヌだった 初めての監督作だからね 観客たちと質疑応答があって ある女性が手を挙げて言った “オーストリアはそんなに憂鬱?” みんな楽しげに笑った 一家の行動はある種の逃避だと皆が理解したのだ なぜならいつも… 自分とは関係のない映画や関係のない本を求めるのはなぜ関係ないか理由を探すためだ それは遠くの光景だから この映画は日本でも同じように理解することができる 米国でもフランスでも オーストリアでも この映画は富める国の肖像だ 第三世界はまた別の問題を抱えている たとえばリンツ市で撮影してもよかった 車のナンバープレートがリンツだから そうしなかったのはニュートラルでいたいからだ ウィーン的なもの有名なものは排除したかった 映画はどんな場所ででも撮られるべきだ だから私は映画の中で場所を明確にしない 限定はしても地域色はない その2つは別のものだ
君の他の作品と比べて特に際立っているのはこの映画には他者がいない 他者が介在せず直接自分自身と対峙している なのに余計混乱してる
なぜならこれは家族に帰結するからだ この家族でもいい あの家族でもいい だから衝撃的なんだ あの家族になりたいか?
まさに なりたくないね

『セブンス・コンチネント』