人間であることを拒絶した者

君の目的はあの野獣なんだろ
野獣は檻の中にいるよ
檻?
ガラス製だ
防護のためよ

確かに載ってますね “輸送中 15人死亡” ですが この記録の管轄は私の部署ではありません 指令にあるように地元当局の管轄です
全国指導者のヒムラーが命令してますね そしてあなたが将校にその命令を伝達してますよね なぜですか? なぜヒムラーはあなたを通して命令したのですか?
決まりにより現地の警察当局または警察支部が私の部署に照会してきました そのため私がその件を処理したのです その後 次の部署に送りました 私は命令に従ったまでです
1両に乗せるユダヤ人の人数を決めたのはあなたですね
それが命令でした 殺害するか否かはすべて命令次第です 事務的に処理したんです私は一端を担ったにすぎません ユダヤ人輸送に必要なその他の業務は様々な部署が担当しました 今の私はジリジリと焼かれる肉の気分です もどかしいからですよ 明らかに根拠のない件ばかりだからです

彼は想像と違ってた
凶悪なSSにいたからさ
凶悪とは違う 違うのよ ガラスケースの中の幽霊みたい 風邪ひきのね 不気味とは程遠い 平凡な人よ

将校は忠誠を誓います 誓いを破る者はクズと見なされます 私も同意見です 今回法廷で宣誓しましたが当時も同じ考えでした 宣誓は宣誓です
忠誠を誓った人たちは総統の死後 宣誓から解放されましたか?
総統の死後? 宣誓から自動的に解放されます
尋問で語ったそうですね “父親が裏切り者だとヒムラーから聞いたら父を撃ち殺しただろう”と
父が裏切り者なら…
ヒムラーが言ったらの話です 父親を殺しました?
裏切りの事実が証明されたなら遂行したでしょう
ではユダヤ人抹殺の必要性も証明済みと?
私は手を下してません
葛藤は感じましたか? 義務と良心の間で迷ったことは?
両極に分かれてました
両極?
つまり… 意識的な両極状態です 義務感と良心の間を行ったり来たりで…
そして良心を捨てたと? 個人の良心をやむなく捨てたと?
そう言えます
“市民の勇気”があれば違ったのでは?
その勇気がヒエラルキー内にあれば違ったでしょう
では虐殺は避けられない運命ではなく人間の行動が招いたものだと?
そのとおりです なにしろ戦時中の混乱期でしたから 皆思いました “上に逆らったって状況は変わらない 抵抗したところでどうせ成功しない”と 仕方なかったんです そういう時代でした 皆そんな世界観で教育されていたんです たたき込まれていたんです

興味深くない? 彼は殺人機関の命令を遂行したわ しかも自分の任務について熱心に語ってた でもユダヤ人に憎悪はないと主張してるの
奴が移送先を知らないとでも?
移送先など関心ないのよ 人を死へと送り込んだけど責任はないと考えてる 貨車が発車したら任務終了
奴によって移送された人間に何が起きても無関係だと? そう彼は役人なのよ 想像を絶する残虐行為と彼の平凡さは同列に語れないの

皆さん 西洋には伝統的な先入観がありました 人間が行う一番の悪は利己心から来るものであると ところが今世紀に現れた悪は予想以上に根元的なものでした 今なら分かります 根源悪とは分かりやすい動機による悪とは違います 利己心による悪ではなくもっと違う現象によるものです 人間を無用の存在にしてしまうことです 強制収容所は被収容者に対して無用の存在であると思い込ませ殺害しました 強制収容所の教えです “犯罪行為がなくとも罰は下せる 搾取が利益を生む必要はない 労働が成果を伴わなくても構わない” 強制収容所とはいかなる行為も感情もその意味を失う所です 無意味が生まれる所とも言えます まとめます こう仮定しましょう 全体主義の最終段階で絶対的な悪が現れる 人間的な動機とはもはや無関係 だとすると次も真実です もし全体主義がなかったら我々は根元的な悪など絶対に経験しなかった

アイヒマンは絞首刑だ
当然でしょ
当然? 不当だ
死刑じゃ不十分?
判決は見せかけの正義だ
彼の行為に妥当な刑はないわ
だから生かしとくんだよ

彼はどこにでもいる人よ 怖いほど凡人なの
国家保安本部ではユダヤ人課のトップだ ただの凡人に務まるか?
確かにね でも彼は自分を国家の忠実な下僕と見てたの “忠誠こそ名誉” 総統の命令は法律よ 彼に罪の意識は全くない 法に従ったからよ
ヒムラーが虐殺を禁止した後もアイヒマンは任務を続けてた なぜだ? 任務を完遂したかったからだ
法律なんてすぐ逆手に取られるものさ “汝 殺すなかれ”が“汝 殺せ”になった 義務の遂行が良心より優先されたんだ
じゃ誰にも責任はないってことか? 殺人が罪なのは明白だ
それが分からない人もいたけどね

一般に悪は“悪魔的 サタンの化身” そう見なされがちだ しかしアイヒマンには悪魔的な深さがない 彼は思考不能だったのだ

“写真のあんたは北極の氷のように冷たく唇には侮蔑が漂い目は残忍だ”

“地獄へ堕ちろ ナチのクソ女”

人間が1人いるだけでした 彼のようなナチの犯罪者は人間というものを否定したのです そこには罰するという選択肢も許す選択肢もない 彼は検察に反論しました 何度も繰り返しね “自発的に行ったことは何もない 善悪を問わず 自分の意思は介在しない 命令に従っただけなのだ”と こうした典型的なナチの弁解で分かります 世界最大の悪はごく平凡な人間が行う悪です そんな人には動機もなく信念も邪心も悪魔的な意図もない 人間であることを拒絶した者なのです

『ハンナ・アーレント』